В токийском университете иностранных языков прошло «Международное научное совещание по проблемам центральноазиатских дунган», в котором приняли участие и ученые из стран Центральной Азии, в том числе Узбекистана

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 ドゥンガン人の野菜栽培の伝統は現在でも継続している.さらに伝統の理にかなった木綿とは一層の発展を得,周辺の諸民族にも広く伝播した.それらのうちその質と味で有名なのはニラdjucej[中国語:jiucai韭菜](独立国家共同体で民族学文献ではドゥンガン・ラムソンdunganskaja cheremshaとして知られる)と大きく赤いラディッシュ(ドゥンガンのものとして知られる)である.現在それをウズベク人,カザク人,ロシア人や非常にさまざまな民族の代表者がタシュケント州とその域外,例えばフェルガナ渓谷でさえ植えている.例として「ドゥンガン・マハッラ」の隣りの「カザク・アウル」 «Kazax-aul»を挙げることが出来るが,カザク人の20家族余りが上述の野菜をドゥンガン人の技術によって植えているのである.

 得られた収穫はウズベキスタンの市場に出され,大量にカザクスタン,ロシアに運ばれる.ドゥンガン人から中央アジアに広まったものとしてまたvosun(四川のキャベツ),dendu(vigna),さやのある甘い及び辛い唐辛子のドゥンガン種,コールラビーkol'rabi,葉キャベツ(?)listovaja kapusta,大豆soevye boby,何種類かのインゲン豆,葉柄のセロリ(?)chereshkovyj sel'derej,小さい梨状の早生のメロン(liguazy),スパイス,その他若干がある.全体としてドゥンガン人に特徴的なことは数十種からなる広品目の野菜の栽培である.それらの多くの種子はドゥンガン人の祖先により中国からもたらされたものであり,現在まで保存されている.

 現在「ドゥンガン・マハッラ」はドゥンガン野菜とその種子の栽培方法の普及の事実上のセンターである.

 植物の世話は多くの努力を要する.それ故ドゥンガン人は1年の多くの部分を労働に従事する.さらにドゥンガン人は特に春期と冬期に,野菜,米を世話し,収穫する時に,自分らを取り囲む住民に労働を保証するのである.野菜栽培について話しを締めくくるに際し,強調したいのは,ドゥンガン人が除草し,周囲の土を耕作するのに用いるのが伝統的な労働用具ツァンズcanzy (ツァンツァンズcancanzy) で,これは小さな鉄製の刃を持つ小さな鉄製のくわ(横に木の,現在では鉄の取っ手が付いている)である.これは周辺の諸民族にも広く普及したが,このことはドゥンガン人の農業の伝統の豊かな経験を反映しているのである.

 農業のほかにドゥンガン人は若干の副業に従事する.その中には澱粉質の麵の製造がある.これに1990年初まで「ドゥンガン・マハッラ」で従事したのは20家族以上だった.現在ではその数は減少したが,それ以外もそれに定期的に行っている.

 少数の農村ドゥンガン人は公共外食業で働いている.異なる時期にそれらの数は5から8に,それに従事する者の数は10人から20人に揺れている.さらに数人の娘と女性はコイルクに食堂での仕事に定期的に行く.

 農業,副業への従事は,得られた収穫は売りさばく必要があるから,なんらかの程度において商業と関連がある.10-15年以上も前には収穫の著しい部分をドゥンガン人は都市でばら売りしていた.そのことに多くの時間と手間がかかった.1960-1970年には米の,1980年末からは野菜の,現在はキノコの卸売りの商人が現われた.多くのそのような商人が「ドゥンガン・マハッラ」に買い付けに来る.したがって大部分の住民は商業を収穫物の卸売にのみ限定している.同時に生産物を同村の人から,また隣接する村々からラディッシュ,ニラ,キノコを買い,タシュケント市で売るというドゥンガン人の若者20人ほど現われた.野菜(ラディッシュ,ニラ,玉ねぎ,ニンニク)と果物をカザクスタン(主としてアルマトゥ)とロシア(シベリア,モスクヴァ)に出荷することにたずさわる若い人が5-10人いる.やっと10人以上の人がドゥンガン・マハッラの家を店にしている.

 家庭での副業からは過去に葦のござを編むこと,糠から民族的な酢を作ること,労働用具やその他若干のものを製造することが消えた.

 しかし著しく小規模で刺繍の伝統は続いており,このことは刺繍を含む工業の材料が大量に生活に定着したことと関連がある.それにもかかわらず民族的な女性用ズボン,枕,タオルの布団を飾るしゅす形縫いの刺繍が保存されている.注文による,あるいは既製品に対する刺繍が大量に普及しているのもかかわらず,上述のズボン,そして刺繍された布団と枕のような若干のものは自分の両親が縫い,作ったものであるか,同族の女性から買ったものである.

 市場経済に入ってからは,ドゥンガン人住民の褥行の構造における一層の変化が生じている.サーヴィス,農業製品の製造,教育,保険,文化等々の分野に従事する人の数が絶えず増えている.

 他民族との日常的な接触の発展と深化は文化の相互影響と相互浸透,伝統文化のさまざまな分野での民族的差異の解消を呼び起こした.それにもかかわらずドゥンガン人を含む数の少ない民族グループはそれらの一定の部分をうまく保っている.

 もっとも統合的な傾向はドゥンガン人の住居と衣服に見られる.住居においては建築材料から内装と外装に至るまでもっとも広範な借用がある.特に都市の若干のドゥンガン人はウズベク人の隣人とは異なるところがない.同じことは衣服についても言え,ドゥンガン人はウズベク人の衣服(男性服も女性複も)の多くの要素を借用した.

 同時にここではいくつかの伝統的な要素が保たれた.農村地域ではそれは入念に手入れされた自留地,手入れのよい中庭である.住居ではそれは中庭の花壇,煙道によって暖房される1つの部屋にしつらえられた暖かい寝床である炕kang,結婚した息子たちのための中庭への個別の出口,主婦に属する長持と衣服の山,低い膳,独立した台所,台所用具,麵棒,野菜を刻むためのまな板,箸等々である.これらすべてを保存することを助長しているのは生活での実際の必要性,何世紀にもわたって形成されてきた習慣である.例えば,ドゥンガン人は低い膳で食事を続けて来たが,椅子と高いテーブルはしばしばドゥンガン人の民族文化に入り込んだ最近の傾向である.

 ドゥンガン人の日常の衣服は実際にはすべて既製服であり,そのうちの多くはウズベク人から借用された.男性の場合チュベチェイカtjubetejka(丸帽),オーバーシューズの付いたイチギichigi(平靴),ハラトxalat(ガウン)であり,女性の場合ワンピース,ズボン,平靴の付いたオーバーシューズ等々である.都市のドゥンガン女性は完全に現代のウズベク人の衣服に移行したと言ってよい.

 物質文化においてもっとも完全に保たれているのは食品んきおける」伝統である1
  1. См. Савуров サヴーロフМ.Д. Секреты Дунганской кухниドゥン

ガン料理の秘密. Ташкентタシュケント. 1989, 2007, 2008

 全体としてタシュケント市とタシュケント州では民族間結婚が多くないことが特徴的であり,このことはドゥンガン人に民族的独自性を保つ可能性を与える重要な要因となっている.

 アンディジャンとフェルガナ渓谷のドゥンガン人はこの問題ではウズベキスタンの大部分のドゥンガン人からは離れている.ここではドゥンガン人が居住した最初の日々から民族間結婚が始まり,それは現在でも恒常的に増大し,その数は民族内結婚を凌駕している.ところで民族間結婚は数の少ないグループにとってすべての結婚の総数の20%以上ではすでに危険であり,エトノスの存立にとってすでに危険だということがよく知られているのである.すなわちドゥンガン人の数は許容される限界をすでに越えており,その限界外に伝統的アイデンティフィケーションの喪失が進行しつつあることを再度語っているのである.すなわちフェルガナ渓谷のドゥンガン人は徐々にウズベク人と融合しつつあるのである.

 過去5-10年間タシュケント市とタシュケント州のドゥンガン人の民族間結婚の数もまた増大した.以前(特に1990年代以前)はドゥンガン人女性が他民族の代表者と結婚すると,両親は彼女との関係を断ったものである.現在では結婚を伝統的ドゥンガン的結婚式で祝い,さらに正常の親縁関係を新しい親戚とも維持するのである.

 農業文化に基づくドゥンガン人とウズベク人の文化的近似性,宗教の共通性,共同体をなしてクラス習慣(ドゥンガン人にあってはフォンfon,ウズベク人に)あってはマハッラ),家族の祝い,葬式,命日の儀礼を行う時の相互扶助は家族関係を含めて接近することを助長している,これらすべての条件を考慮すれば,ウズベキスタンのドゥンガン人にとって民族間結婚は徐々に習慣的なことになりつつあり,その数は増大するであろうと言える.

 ドゥンガン人の伝統的な人名のモデルは2つの特徴的な姓と名からなる:例、ヴァン・チャンシVan Chanshi.これらと並んで各々のドゥンガン人には自己の環境において用いられるムスリム名と幼児名がある.中央アジア,他の民族的文化的環境への移住は大きな変化をもたらした.新しいモデルはロシア語によって作られ,姓,名,父称を含んだ.新しい性の起源はさまざまである:第1,古い姓と名,いわばセットで用いられた.例:マサンチMasanchi,マボツァイMabocaj,ミヴァチンMivachin,マチンMachin等;第2,伝統的な姓に –shanroシャンロ(陝西方言で非宗教的位階の人を表わす単語)を付け加えた.―マシャンロMashanlo,リュシャンロLjushanlo,リンシャンロLinshanlo,ハンシャンロXanshanlo等;第3,家庭での子供たちの間の序列を表わす単語から―ロダLoda―1番目,ロエルLoér―2番目,ロサンLosan―3番目,ロスLosy―4番目,ロウLou―5番目,ロリュLolju―6番目,ロチLochi―7番目;第4.過去に伝統的だった相互の呼び掛けから:ロマLoma―マMa爺さん,ロリュLolju―リュLju爺さん;第5.父親あるいは祖父の名あるいはあだ名から:シェルバSherba,シュスルShysyr,エルサÉrsa,エルスマÉrsma,ビニュBinju,ヒグXigu等;第6.後に最も多くなった.ロシア語の例にならって父親あるいは祖父の名に語尾ovとevを添付した形:シマーロフShimarov,ビニューイェフBinjuev等.

 中国的見本の伝統的姓が部分的にのみ,若干の新しい姓に用いられるとはいえ,多くのドゥンガン人はそれらを記憶している.タシュケント市とタシュケント州にはそれらのうち次のものがわれわれによって見つけられた:マMa,マオMao,ヤンJan,ユアンJuan',ビBi,ヒXi,ハンXan,フオンXuon,リLi,リュLju,ミMi,チェChe,ゴGo,グGu,フンFyn,カンKan,チャオChzhao,チャンChzhan,ヴァンVan.

 自分の古い姓を記憶していない人もわれわれによって記録された.歴史的祖国―中国出身の人々との接触の増大によってそのような人々には自分の古い姓と彼らの祖先の起源に対する一定の関心が生じ始める.

 ドゥンガン人のトゥルケスタン地方への移住,民俗的及び文化的環境の変化はここでもっとも習慣的なムスリム名を徐々に第一線に押し出した.それにもかかわらず100年以上もの間今に至るまでなおも以前の家庭名:ヒヴァXiva,リLi,ボBo,グドルGudor,ガニュルGanjur,ヒニュズXinjuzy等がドゥンガン人のところで行われている.

 ドゥンガン人の間でムスリム名のうちもっとも普及しているのはアラビア名である.男性の場合それは預言者ムハンマドMuxammedと正統カリフ―アブAbu,バキルBakir,オマルOmar,オスマンOsman,アリAli,宗教的苦行者,例えばアリの息子たち―ハサンXasanとフサンHusan,賢者ルクマンLukman,アッラーフの形容語―ラヒムRaxim(寛容な),ラフマンRaxman(慈悲深い)である.女性の名はムハンマドの母,妻,娘の名―アミナAmina,ハディジャXadidzha,ファティマFatima,処女マリヤ:自己の信仰心によって知られる女性苦行者の名―ラビナRabina>ラビヤ(ラビア),ズバイダZubajda等にさかのぼる.

 ドゥンガン人の男性名で重要な位置を占めたのが聖書の預言者たちの名である:ヌフNux―ノイNoj,ヤクブJakub―ヤコヴJakov、ムサMusa―モイセイMojsej,ダウドDaud(ダウルDaur)―ダヴィドDavid,イブラギムIbragim―アブラアムAbraam,スレイマンSulejman―ソロモンSolomon,イサIsa―イイススIisus,ユスフJusuf―イオシフIosif,イスハクIsxak―イサアクIsaak,ユヌスJunus―イオナIona等.名は月,曜日,祭日の名称にならっても与えられる:ラジャブRadzhab,ラマダンRamadan(ラマザンRamazan)、ジュマDzhuma,エディルÉdir(ハイトXait).

 ウズベキスタンに居住する長い期間にドゥンガン人はウズベク人の伝統的名称のうち多くを借用した:ボティルBotir―勇者,アルスランArslanーライオン,トゥルスンTursun―立ち止まりなさい(先に生まれた子供たちが死んだ時にこの名が付けられる),アリシェルAlisher―預言者のライオン,ロラLola―チューリップ,フィリュザFirjuza―トルコ石birjuza,ラノRano―美しい等.

 過去数十年間にドゥンガン人のところでは純粋なウズベク名の数が急激に増えた.肯定的意味を持つ響きのよい名:ニギーナNigina,セヴァラSevara,ディオラDiora,ディリドラDil'dora,ニリュファルNiljufar,ナシバNasiba,イフティヨルIxtiër,ダニヤルDanijar,フィルダヴスFirdavs等.

 ドゥンガン人がムスリム名を用いる特殊性として彼らの発音の規範に応じて若干の変更を加えるということがある:例,ムハンメドMuxammed―ムハルメMuxarme,ルクマンLukman―ルグマルLugmar,カリムKarim―ケリKeri,ハディジャXadidzha―ヘジェルXédzhér,ファティマFatima―ファトメFatme,サリマSalima―セメSeme等.これらとともにドゥンガン人は,上に述べたように,以前の家庭内の名,あるいは幼児名をなおも,その持ち主が成人になってさえ,今まで用いている:例,ヒヴァXiva,ビヴァBiva,リヴァLiva,ダンダンDandan,ボBo.そういうものは特に女性名に多い:エルデÉrde―2番目の娘,サンフアSanxua―3番目の花,トフアToxua―桃の花,シェフオルShchexuor―ユキノハナ,グイフオルGujxuor―薔薇等.全体として,ドゥンガン人の人名のモデルと名称における基本的な変化にもかかわらず,ドゥンガン人のところには一部の伝統的な名と姓が保存されている.

 すでに上に言及したように,ドゥンガン人は周辺の住民とよい関係を持っている.これはまた仕事における隣人の,友人の関係でもある.他民族(ウズベク人,ロシア人,カザク人,朝鮮人,その他多数)の代表たる友人のいないドゥンガン人は実際にはいない.旧ソ連における長い間ここに居住する諸民族間の民族関係は民族間教育の重要な問題だった.この事業は独立ウズベキスタンでは最重要の国家政策となり,その軸となるのは民族間の合意であり,それが社会と国家における安定の基礎である.

 独立ウズベキスタンの20年が示したように,そのような政策が現代世界におけるどの多民族国家も唯一の選択肢なのである.

 ドゥンガン人及び他の諸民族がウズベキスタンに住みつき,彼らとウズベク人の間の友人の関係が発展したことに役だった非常に重要な要因はウズベク民族の寛容さである.

 例をわたくしの亡くなった母―サヴーロヴァ・アイシャSavurova Ajshaの記憶から引こう.30年代中頃(わたくしは11 – 12歳だった)われわれはタシュケントの旧市街の「チャゴタイ=ダルヴォザChagotaj-Darvoza」マハッラに住んでいた.わが家族は父,母,妾,そしてわれわれ子供3人の6人でなりたっていた.わたくしが兄さんだった.父は商売をしていた.フルンゼFrunze(現ビシュケクBishkek)から商品,主として唐辛子の粉と他のスパイスを運んできた.旧市街のバザールで売ったが,そこには商うところが2箇所あった.商用でしばしば家をあけた.残された食料の蓄えが枯渇した.母と妾は働かず,ロシア語もウズベク語も知らなかった.多くの知り合いのドゥンガン人や遠い親戚がわれわれを訪れ,父を待つ単調な日々に活気をもたらしてくれるということがあった.しかし何よりもわたくしの心に深く刻まれたのはウズベク人の隣人からのわれわれに対するありふれた人間的な態度だった.普通,父が家を出てから5 – 7日後に(なんらかの方法でそれは知られるようになった)隣人の1人がわれわれのところに立ち寄って尋ねた.うまくいっているか? 何か足りないものはないか?と.通訳はわたくしだった.こんな風に順繰りにわれわれのところには近隣の人3-4人が皆寄って行った.彼らは訪れるたびにパンを持ってきてくれた.彼ら自身われわれ以上に生活が苦しかったにもかかわらず.

正にこの時以来わたくしの記憶にはウズベク・パンの味が刻み込まれたのである.ドゥンガン人のパンとは違って,やや塩気のあるウズベク・パンは,つまみがなくても,早く満腹にさせてくれ,非常にわれわれの気に入った.

 わたくしの母は,強い性格の持ち主だったとはいえ,家に男,親戚,同民族の人が長期間いないこと(時に2ヶ月以上にもなった),言語を知らないこと,未知の民族的環境に囲まれていることは彼女を衰弱させ,陰鬱にさせた.そういう状況にあって時に子連れの隣人のほとんど毎日のお人よしの訪問は,放置され,出口のない雰囲気を溶かし,非ドゥンガン人隣人との関係において,肉親のものと比べられる親近性と快適さの気分と感じをもたらしてくれた.当時われわれはウズベクの遊びをし,数え歌,詩,歌を学んだが,それらに対する愛情はわたくしは一生持ち続けている.これらの感覚はウズベク文化に対しても,真の故郷となったウズベクの地に対しても味わっている.

 幼児期からウズベク語を知り,ウズベク民族の文化に親しみ,エトノス的性格の伝統や他の特徴を親しく知ったことはわたくしにそれらを自分のものと感じ,看做す可能性を与えてくれた.わたくしはウズベキスタンに人生の大部分を過ごし,1度も自分を他人と思ったことがない.

 まさにこのような動機がわたくしの父に自分の妻の2人の兄弟に住みなれた土地を後にして家族全員でカザクスタンのジャンブル州Dzhambul'skaja oblast'からタシュケント州オルタチルチク地区の現在の「ドゥンガン・マハッラ」コルホーズに移住することを奮い立たせた重要な要因だったと信じている.

現在わたくしの母と彼女の2人の姉妹の子孫は280人以上,すなわちウズベキスタンの全ドゥンガン人人口の約15%をなしている.

幼児期から言語を習得すること,民族間の交際における寛容性を含めてウズベク人のエトノス的タイプを知ることは他の諸エトノスの代表者たちに相応の対応を形成することを多くの点で助ける.ある場合にはこれはウズベク人の間の小民族のある部分の同化的過程を促進し,ある場合には民族間の諸関係の共通の雰囲気に肯定的な影響をもたらし,ウズベキスタンにおける形成された民族間の合意の状況を強化するのである.しかしいずれの場合にもウズベク民族の寛容性が,ウズベク文化に親しむこと,ウズベクの地で数百万の人にとって新しい故郷を獲得することを促進してきたし,促進しているのである.

 強力な民族間接触の結果ウズベキスタン・ドゥンガン人の精神文化に著しい変化が生じた.過去100年間に生じた民族的変化が明らかに反映したアスペクトの一つとして言語状況がある.ドゥンガン人による民族語及び他の諸言語の知識の程度は非常に著しい文化的,民族的結果,そしてそれなりの特殊性を持っている.この特殊性を条件づけている要因にはドゥンガン人が絶対的に,あるいは相対的に少数であること,いろいろな民族の間での居住が分散していること,そしてドゥンガン人がロシア語あるいはウズベク語で教育と情報を得ていることが属する.ここから出て来るのは2つのマクロ民族的及びマクロ言語的環境のドゥンガン人の民族言語的諸変化の発展に対する作用である.さらにそれらに対して影響を及ぼすのはまた,隣りに住むより少数の民族グループのミクロ環境でもある.

 全体として,ウズベキスタンのドゥンガン人は,少数であり,ここに長く居住しているにもかかわらず,著しい程度において民族語を保っている.しかし異なる州,地区及び都市に居住する人々の間でのドゥンガン人の分布の度合いは強く異なる.

 ウズベキスタン,そしてクルグズスタン,カザクスタン及び中華人民共和国のドゥンガン人が他の諸グループと固い連携を持つもっとも密集して住む地域ではドゥンガン語を最もよく知っている.第1に,それはドゥンガン・マハッラ村である.ここではなんらかの程度においてドゥンガン語をよく知るものはすべてのドゥンガン人である.

 絶対的多数は母語でよく話す.例外をなすのはタシュケント州ブキン地区Bukinskij rajonからここに住みついた家族の数人である.彼らは理解しているのに,ウズベク語あるいはロシア語で答えるが,自分の幼児とはドゥンガン語で話す.

 ここでは自分の家で,隣人とドゥンガン語で話すのは老人,青年,子供である(青年と子供は時にロシア語と交互に話す).同村のウズベク人,カザク人,朝鮮人,ロシア人,そして以前にはトルコ人の子供の多くはドゥンガン語を知っている.ドゥンガン人が自己の言語を保つことに及ぼしたのはここに130家族が密集して住んでいること,クルグズスタンとカザクスタン出身の同族とつながりがあることであり,これにより過去30年間に自分の言語をもっとも完全に知っている50人以上の妻が来て,それらの多くがドゥンガン語(ロシア字母に基づく中国語甘粛方言)でよく読み,書き,このことすべては自分の子供と大人(自分の夫,家族の構成員,隣人)にさえ言語を伝えるのである.1991-1995年農村の学校でのドゥンガン語の教育と1999年から2002年までの中国語の教育もそれなりの役割を果たした.

 よく自分の言語を知っているのはユコルチルチク地区ユク・オタ村,トイ・テパ市g. Toj-Tepa,コイルク市場周辺のドゥンガン人である.このことが反映されるのは,トイ・テパの住民は「ドゥンガン・マハッラ」からの新しい移住者(15-20年)であり,ユク・オタ村,コイルク7市場周辺のタシュケント市の諸地区の住民は比較的密集して住んでおり,固い連携を相互に,そしてドゥンガン・マハッラ村とも持っていることである.ここでも多くの妻がカザクスタンとクルグズスタンから来ている.それにもかかわらず,自分の言語を用いる規模は少し狭い:例えば,生産の分野では,農業に従事し,自分と同族の者と働いている人々によってのみ言語は用いられている.ここにもドゥンガン語が実際に用いられないという数家族(4-5)がいる.

 民族語の知識が悪く,民族語で少ししか話さないのはタシュケント市のウズベク人の密集した環境と多民族地区に住むドゥンガン人である.ここでは理由は第1に,住民が分散していること,多くの家族が民族的=混交的であることにある.

 異民族的環境に長い間(125年以上)居住し,住民が分散している結果として,フェルガナ渓谷のアンディジャン市と他の諸都市のドゥンガン人は実際に民族語を失った.タラズTaraz(カザクスタン)に親戚のいる老人のグループだけはドゥンガン語を少し記憶している.キム・ビョンファ・コルホーズのドゥンガン人は第2及び第3世代の民族的=混交的家族に育ったので,実際には母語を知らない.

 40歳以前にドゥンガン語をよく習得していない状況(60%以上の人々)はタシュケント市の旧市街ではもっと多く, 30%以下のドゥンガン人が母語で話すという家庭での言語行動に反映している.

 ドゥンガン人の間のドゥンガン語の使用における状況は特徴がある.40-5-歳以上のドゥンガン人は絶対的多数のドゥンガン人どうしでは母語出話す.しかしタシュケント市に住むドゥンガン人は時にウズベク語で話す.ドゥンガン・マハッラの30-50歳のドゥンガン人は,基本的には自分の言語で話すとはいえ,ドゥンガン語と並んでロシア語も用いる.同じ状況はトイ・テパ,ユク・オタ,コイルク市場周辺のタシュケント市の諸地区にも見られる.

 タシュケントの旧市街と他の地区ではドゥンガン人はドゥンガン人との会話でウズベク語を多く用い,稀にロシア語を用い,そして約25%だけが自分の言語で話す.

 ここで見るように,民族語の使用は密集型の住居から分散型へと,そして年齢の低下によって減少する,すなわち使用の範囲が狭まり,人の数が減少する傾向が目立つ.

 ウズベキスタンのドゥンガン人にとって特徴的なことはロシア語をよく知っていることである.このことに大きな役割を演じて来たし,演じているのは学校前教育,学校での授業,中等専門学校及び大学,そしてマス・コミュニケーションである.もっともよくドゥンガン語を習得しているのはタシュケント市,ドゥンガン・マハッラのドゥンガン人である.ロシア語をよく知らないのはフェルガナ渓谷のドゥンガン人とタシュケント市の旧市街,コイルク市場周辺の諸地区の老人層である.

 ウズベキスタン独立の初期からドゥンガン人にあってはロシア語使用の範囲が幾分せばめられたが,殊にドゥンガン・マハッラでそうであり,ここでは学校では1998年から教育はウズベク語に移行した.

 ドゥンガン人はウズベキスタンに居住する最初の年からウズベク語を習得した.特にそれが特徴的なのがフェルガナ渓谷とタシュケント市の旧市街であり,ここでは年とともにウズベク語が基本的な交際の手段となった.ウズベク語の知識が弱いのはドゥンガン・マハッラとコイルク市場周辺のドゥンガン人の一定部分である.過去十年間幼稚園と託児所,学校,他の学校等でドゥンガン人によるウズベク語の使用が著しく広がった.このことはロシア語住民が減少し,ロシア語の使用が狭まり,民族間交際の言語としてのウズベク語の役割が増大し,ウズベク語に国家語の地位が付与されたこととかかわっている.

 ウズベク語はドゥンガン人の家庭生活環境に入り込んだ.フェルガナ渓谷とタシュケント市の旧市街の大部分ではドゥンガン人は家でウズベク語で話す.そのようなドゥンガン人はコイルク市場周辺の諸地区でも4-5家族数えられる.

 全体としてウズベキスタンのドゥンガン人は,ドゥンガン・マハッラとコイルク市場周辺の一部の地区から来た若者の世代を除いて,ウズベク語をよく習得している.さらにドゥンガン人の間でのウズベク語の役割は年々増大しつつある.

 ウズベキスタンのドゥンガン人の民族言語的状況の形成と発展に影響を与えたのはロシア語とウズベク語という2つの言語的マクロ環境だけでなく、同じ地域にドゥンガン人とともに居住する他の比較的少数の諸民族,特にカザク人,朝鮮人,トルコ人,その他若干である.例えば,ユコル・チルチク地区ユク・オタ村(ここには多くのカザク人がいる)のドゥンガン人の大部分はカザク語をよく知っているし,ドゥンガン・マハッラ(1936-1970年には多くの朝鮮人が住んでいた)の老年層と中年層のドゥンガン人の間には朝鮮語を知っていた.彼らのうち多くの者はここではここに住んでいたトルコ人の言語を習得していた.

 ドゥンガン人の間には基本的にクルグズスタンに生まれて育ったものはクルグズ語を知っており,中国から最近移住してきた者はウイグル語を知っている.

 したがってウズベキスタンのドゥンガン人に特徴的なことは多言語使用である.ドゥンガン語は主として生活の領域で,ドゥンガン人の間で用いられ,民族間交際の言語としては基本的にロシア語とウズベク語である.その際ウズベク語の使用の拡大が一般的領域においても生活の領域においても行われる.ゆっくりと,しかし母語を知らない者のパーセントは増大しつつある.

 ウズベキスタンのドゥンガン人の一部が,家庭を含めてほとんどすべての領域の活動において,ウズベク語を習得し,ウズベク語に移行することは重大な民族的諸結果をも引き起こした.例えば,フェルガナ渓谷の多くのドゥンガン人とタシュケント市旧市街から来た若干のドゥンガン人(母語としてウズベク語を採用した)は今や自身をウズベク人と意識している.すなわちウズベク語ドゥンガン人の間にはドゥンガン人のウズベク人との同化的過程が生じつつあるのである.ロシア語に移行したドゥンガン人の場合はそのような民族的結果は見られない.

 ウズベキスタンのドゥンガン人の民族言語的状況を一層肯定的に発展させ,ドゥンガン人を独自の文化を持つ民族的単位として保つためには,2つのグループの要因が作用する,すなわち母語の発展に好都合に働く第1の要因,及び国家語の広範な普及を規定する第2の要因がこれである.すなわち諸民族の同権,諸民族の最上の発展と接近を保証するというウズベキスタン大統領I・A・カリーモフKarimovの民族政策の国際的原則に答えるものすべてである.すなわちウズベク語の充分な知識と並んで,ドゥンガン人には母語を保存し,発展させる条件が必要なのである.

ウズベキスタンのドゥンガン人の母語について語る時,われわれは彼らが基本的に中国語陝西方言で話していることをすでに指摘した.ソヴェト時代にもそれを学ばなかったのは,ドゥンガン書写語が普通話(中国標準語)に近い中国語甘粛方言を基礎としているからである.さらに最近ジレンマが生じた:甘粛方言を学ぶべきか,普通話putonghuaを学ぶべきか? ドゥンガン人センターは第2の道を決定した.何故ならばキリル字に基づく甘粛方言を学ぶことは疑いなくドゥンガン人の将来の世代を3つの国家:ウズベキスタン,クルグズスタン,カザクスタンの枠に限定することを意味するが,普通話を学ぶことは中国語のすべての話者との交際の可能性を与えるからである.そのような現実がすでにあるからにはなおさらのことである.他の諸国(独立国家共同体以外)に住むドゥンガン人[回族]を含めて中国からの移住者はまさに普通話を学んでいるのである.普通話を学ぶことが陝西方言(ドゥンガン語)の喪失ではなく,ドゥンガン語を豊かにさせることを助長するからにはなおさらのことである.普通話を細菌学んだ者はドゥンガン語ではるかによく話すようになったのである.

われわれはいたずらに母語にそれほどまでに注意を向けたわけではない.現実が示しているように,多民族的環境における生活は必ず民族文化の一部の喪失をもたらすのである.しかし伝統の諸局面の喪失は1つとしてエトノスの最も重要な特徴の1つたる言語の喪失とは比較にならないのである.それ故ウズベキスタンの指導部によってそのような理解が国家における民族的及び文化的多様性の保存と発展に向けられているのである.ドゥンガン・ディアスポラは自分の言語で話し,考え続けたいという希望を持っているので,このテーマはまたドゥンガン文化センターが設立された当初からセンターの注意の中心にあった.現在の課題は母語をもっとも完全に保存し,発展させることを保証する水準にまで事業を強化することである.わがセンターはこの分野で仕事をし,言語の学習のために中国に12人の若い男女を派遣することに助力した.

他の諸民族の代表者と同じくドゥンガン人を引きつけるのは固有の歴史と文化であるが,これは完全に理にかなっている.この文化を再生し,母語を保存し,発展させること―これが1990年11月タシュケント市にドゥンガン文化センターDunganskij kul'turnyj centr(DKC)が創設された主たる目的である.

センターは自分の事業において自己のメンバーと積極的な人々だけでなくすべてのレヴェルの地方機関:マハッラ協議会maxallinskij sovet,村役場sel'skij sxod,地区役場rajonnyj xokimiatにも依拠しており,地方機関ではいつでも相応の援助が得られる.この点では「ドゥンガン・マハッラ」住民の要求に対して常に分相応の援助をしているオルタ・チルチク地区役所,カラスー村役場の側からの特別に注意深い対応を指摘しなければならない.

 ここではカリキュラムの仕事をしている.例えば,ドゥンガン人が最も多く密集して住んでいる「カラスー」農場の第