В токийском университете иностранных языков прошло «Международное научное совещание по проблемам центральноазиатских дунган», в котором приняли участие и ученые из стран Центральной Азии, в том числе Узбекистана

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ナルン州


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ドゥンガン新聞はドゥンガン民族の文化と団結の重要な要素


ドゥンガン新聞の創造と機能ぶりに関する問題によせて


 ドゥンガン人の印刷された機関紙誕生の日付は1932年1月25日とされる.この日に «Дун Хуəщир / Dun Xuəsh'ir(東火星児)»(ドゥン・フオシル),ロシア語訳では «Искра Востока / Iskra Vostoka»(東方の火花)という名の新聞第1号が世に出た.初代の編集者はジュマ・アブドゥーリンDzhuma Abdullinで,彼は当時もっとも教育のある人の1人だった.D・アブドゥーリンは中央アジア国立大学(タシュケント市)の卒業生で,当時高等教育を受けた最初のドゥンガン人だった.新聞は5日に1度定期的に,2ページだてでラテン字母で出された.もっと古くは1930年6月15日からクルグズ語新聞 «Сабаттуу бол / Sabattuu bol»(ロシア語:«Будь грамотным / Bud' gramotnyv»(識字せよ))の小さな部分がドゥンガン人語によるコラム «Куə шызы / Kué shyzy»(ロシア語で «Быстрее стань грамотным / Bystree stan' gramotnym»(速く識字せよ))に充てられた.この新聞は月に3回出され、その主たる任務は住民の間での文盲の一掃だった.この事業を指導したのも当のD・アブドゥーリンである.

 「ドゥン・フオシル」新聞は重要な役割を果たし,その周りに生まれたばかりのドゥンガン人インテリゲンチヤを結集した.そこに印刷され始めたのはJa・シヴァザShivaza,フセ・マケXuse Maké,その他の初期のドゥンガン人詩人と作家たちであり,彼らが後にドゥンガン書写文学の創始者となった.ラテン字母によるドゥンガン語新聞は長く存続しなかった.1930年代の大規模弾圧の被害をソヴェト人民の多くの代表者が蒙り,この点ではドゥンガン人も例外ではなかった.罪なく殺された人の間にはドゥンガン語新聞の最初の編集者D・アブドゥーリンもいた.彼の死後1938年に編集者の職に任命されたのはマメーゾフ・サリザMamezov Salizaだったが,1939年新聞の終刊まで長くは続かなかった.

 50年代初にキリル字によるドゥンガン文字が作られた.詩人にして社会活動家のヤスル・シヴァザをはじめとする進歩的ドゥンガン人インテリゲンチヤはドゥンガン語新聞復活という大きな仕事を成し遂げた.多くの点で彼の大きな努力のおかげで,ソ連に存在する権力の最高のレヴェルでの肯定的な決定が採択された.新しい新聞は «Сулян хуэйцзу бо / Suljan xuéjczu bo»(蘇聯回族報),ロシア語で «Газета советвких дунган / Gazeta sovetskix dungan»(ソヴェト・ドゥンガン人新聞)と名付けられた.この新聞は高いステータスを持ち,共和国間新聞(加盟共和国にまたがる新聞)であり,これの発起者はクルグズ共和国共産党中央委員会,クルグズ共和国閣僚会議及び最高会議幹部会だった.この新聞は4面を落ち,週1回刊,その編集長には詩人のJa・シヴァザがなった.同年11月この新聞は «Шыйуэди чи / Shyjuédi chi(十月的旗)»(ロシア語で«Знамя Октября / Znamja Oktjabrja»(十月の旗)と名付けられ,ソ連崩壊に至るまで週に2回刊行された.新聞が機能した全期間を通して(1957年-1992年)この新聞はドゥンガン民族の文化的及び精神的中心だったことを指摘しなければならない.ドゥンガン人インテリゲンチヤのほとんど例外なくすべての代表者はある時は新聞の編集部で働き,ある時は積極的に編集部と協力した.この新聞の最後の時まで編集部で働き,編集部に協力したのが詩人のヤスル・シヴァザとフセ・マケ,作家のアルリ・アルブドゥArli Arbuduとヤクプ・ハヴァゾフJakub Xavazov,クルグズスタン科学アカデミー候補ムハメド・スシャンロMuxamed Sushanlo教授とイリヤス・ユスーポフIl'jas Jusupov教授のような著名な学者その他の人々であることを指摘するだけで充分である.

 この新聞は35年の存続期間中に多くのドゥンガン人インテリゲンチヤを育てた.初期に編集部集団の核となったのはヤスル・シヴァザ,アルリ・アルブドゥ,フセ・マケ,ジャミリャ・カリーモフZhamilja Kalimov,ヌルマ・ロヤーノフNurma Lojanov,ニザム・マデユーイェフNizam Madejuev,アイシャ・マンスーロヴァAjsha Mansurova等であった.60-70年代には編集部集団は少し拡大し,すでに名を知られた協力者と並んで後に新しい人たちが働いた.それはヤクプ・ハヴァーゾフJakup Xavazovとアジズ・ハヴァーゾフAziz Xavazov,ラマザン・マギーイェフRamazan Magiev,イヴァズ・スシャンロIvazy Sushanlo,アルリ・ブガーゾフArli Bugazov,ラヒム・ロサーノフRaxim Losanov,ムサ・ユブザMusa Jybuza,ウマル・ユスーポフUmar Jusupov,ラヒム・ライチノフRaxim Lajchinov,アルリ・テャングベルArli Tjanguber,ハリマ・ルーロヴァXalima Lurova,ヤニャンザ・シャバザJanjanzaShabaza,ファティマ・イハーゾヴァFatima Ixazova,モダン・マシャンピンModan Mashanpin等である.

 新聞の編集長職ではJa・シヴァザが1957年-1966年に実り多い仕事をし,1966年からは1988年に年金生活に入るまでクルグズスタン功労文化勤労者,作家のヤクプ・ハヴァーゾフが役を任じた.1988年-1990年の期間はイスマル・シャムザIsmar Shamuzaが編集長だった.彼の突然の逝去後編集長に商人されたのはユスル・ロマJusur Lomaで,彼は1992年ソ連の崩壊による新聞の閉鎖と国家の側からの財政措置の停止に至るまでこの任にあった.なるほど1993年に旧全連邦ドゥンガン人協会(ユヌス・ドゥンラーロフJunus Dunlarov議長)は編集長職にイブラギム・ヒロウIbragim Xilouを任命して新聞の発行を復活させようと試みた.彼は一定の資金を得て数号を出すことが出来たが,そこで新聞は最終的にその存在を中止した.

 ドゥンガン語新聞の再生は1994年に設立されたクルグズ共和国ドゥンガン人協会の重要な宣言された任務の1つである.ドゥンガン人ディアスポラのために印刷された機関紙を持つことの重要性については協会の創立総会の代議員及び理事たちから初期の会議で発言があった.しかしドゥンガン語新聞創刊の直接の仕事は協会のベラト・ヴシーゾヴィチ・カスマフーノフBerat Vushizovich Kasmaxunov副議長を長とする組織委員会が作られた1995年末にやっと始まったのである.ベラト・ヴシーゾヴィチが偉大な組織力を持った人物であることを指摘しなければならない.きちんとしていて,誠実で,交際において開けっぴろげで,仕事の能力が高く,提起された目的を達成するのに粘り強いというB・

カスマフーノフの性格の特徴は彼の勤労及び社会活動における多くのよい仕事を自己になさしめているのである.この点でも新聞の再生についての仕事はまったく例外ではない.クルグズ共和国ドゥンガン人協会創立の源にはまさにB・カスマフーノフがいたことを指摘するだけで充分である.彼はコムソモールと党の仕事の多くの段階を踏んだ:すなわちコムソモール・プルジェヴァリスキーPrzheval'skij市(現カラコル市)委員会第2書記,党市委員会指導員,人民統制委員会イッスク・クル州委員会組織部主任(アルマ・アタ高等党学校を優秀な成績で卒業),後に党イッスク・クル州委員会講師団講師及び主任.1989年にはクルグズスタン共産党中央委員会に転任し,始めは講師職に,後にクルグズスタン共産党中央委員会オルグ長職にあった.後に共和国が主権を獲得した後はベラト・ヴシーゾヴィチは共和国盲人協会副議長職にあり,ビシュケク市役所に勤務した.

 会長をはじめとする組織委員会のメンバーは1996年ドゥンガン人住民が密集して住むすべての居住区を訪問し,村落共同体の活動家,そして指導者及び長老と会った.住民の大部分はドゥンガン人の印刷された機関紙の最盛についての協会指導部の決定を支持した.それと同時に新聞の購読を組織することの困難さが1度ならず語られ,その際年の購読料がわずか2ルーブル8カペイカだったソヴェト時代でさえ購読者の総数がよい時でも3つの共和国(クルグズスタン,カザクスタン,ウズベキスタン)でやっと5千部近かったという記憶が語られた.

 ドゥンガン人協会付属のドゥンガン語新聞再生組織委員会が作られる前にすでに情報センターが作られ,B・カスマフーノフが議長に任命された.このセンターはドゥンガン語の大衆情報手段の機能ぶりに関する全事業を管理することが予定された.後にラジオとテレビの活動が国家予算によってなされるためにラジオとテレビのドゥンガンの編集はかなりうまく行っていたから,センターの仕事は基本的に創刊される新聞の周りに集中されることになった.それ故初期の段階では編集部の仕事は純粋に作成の仕事に限られ,組織上,財政上の保証は情報センター長が行った.

 新しい名称 «Хуэймин бо / Xuéjmin bo»(回民報)(ロシア語:«Дунганская газета / Dunganskaja gazeta»(ドゥンガン新聞))による再生された新聞の第1号はドゥンガン書写文学の創始者,クルグズスタン人民詩人,初期の新聞編集者の1人ヤスル・シヴァザの誕生90周年にあわせて,1996年3月18日に発行された.最初の刊行の準備にはB・カスマフーノフ,新聞編集長B・ドゥヴァザDuvaza,熟達したジャーナリスト, «Вечерний Фрунзе / Vechernij Frunze»(夕刊フルンゼ)新聞の最初の協力者の1人ヴラジーミル・ペトローヴィチ・スコロドゥーモフVladimir Petrovich Skorodumov,ドゥンガン語ラジオ放送編集者兼アナウンサーR・ロサーノフLosanov,ドゥンガン語テレビ放送編集者兼アナウンサー・ファティマ・マシンハーイェヴァFatima Mashynxaeva等々が積極的に参加した.最初の刊行を保証する大きな仕事はマフムド・ユスーポフMaxmud Jusupovがなしたが,彼は後に新聞の技術編集者となった.彼の努力のおかげで新聞印刷の準備は完全にコンピューター化された(当時共和国の大部分の新聞はコンピューター化の準備中で,古い活字方式で発行されていた).

 「ドゥンガン新聞」第1号の発行はドゥンガン人ディアスポラの文化生活において重要な出来事だった.ヤスル・シヴァザ90年祭に向けた他の行事と並んで新聞の再生は1996年にドゥンガン人住民の生活において顕著な出来事となった.

 1996年6月から年末まで情報センター長の役割をラシド・ユスーポフが担当し,1997年初に情報センターが廃止され,B・ドゥヴァザが新聞から去ることと関連して彼が編集長に任命された.新しい新聞は月2回刊,各号は8面からなった.初期にはいろいろな時期に編集部ではB・カスマフーノフ,B・ドゥヴァザ,R・ロサーノフ,F・マシンハーイェヴァ,O・ラニマーゾフLanimazov,V・オメリチキンOmelichkin,R・ユスーポフ,M・ユスーポフ,M・マシャンピン,Z・マボMabo,I・ヴォールコフVolkov,N・ネシチェレトNeshcheret等々が仕事をした.新聞にはM・イマーゾフを長とする科学アカデミードゥンガン学部局の学者たち,児童作家A・マンスーロヴァMansurova,学者たちF・マケーイェヴァMakeeva,R・バキーロフBakirov,ドゥンガン語,ドゥンガン文学の教師たち,さらにカザクスタンのドゥンガン人作家と詩人(É・ビージャングイディBijdzhan-gujdi,X・ラアフーノフLaaxunov,F・ムサーイェヴァMusaeva)その他多くの活動家が協力した.

 財政的保証での困難の結果として新聞は1999年と2001年は発行されなかった.2001年ドゥンガン人の社会=政治及び芸術=評論雑誌たる«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人 / 回族)創刊と関連してR・ユスーポフは編集長職から解かれた.新聞は2002年に編集長ベハズ・ラフマーノヴィチ・ドゥヴァザBexaz Raxmanovich Duvazaの指導のもとに版を新たにした.現在新聞は月2回刊,毎号4面である.

 以下の文で社会の市場経済への移行という条件における再生ドゥンガン語新聞成立のもっとも困難だった初期について語られる.


«Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語: «Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))は独立国家共同体で初めてのドゥンガン語雑誌


 2001年5月16日にはクルグズスタン・ドゥンガン・ディアスポラの文化生活に重要な出来事が起きた:すなわち中央アジア・ドゥンガン人の歴史において初めて社会=政治及び芸術=評論雑誌たる «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))が発行され,その披露宴が首都のレストラン「北京 «Пекин / Pekin»」で行われたのである.披露宴には高位の賓客,文化・教育活動家,ドゥンガン人密集居住地区の企業家や代表者,さらに中国とカザクスタンからの尊敬すべき賓客たちが出席した.式典には国際雑誌編集協議会議長,クルグズ共和国財務相テミルベク・アクタマリイェフTemirbek Aktamaliev,駐クルグズスタン中国大使,チャン・チミンЧжан Чжимин / Zhang Zhimin,駐クルグズスタン中国領事ワン・チャンピンВан Чан Пин / Wang Chanpin,クルグズスタン大統領行政課長アスルカノフAsykkanov氏,国会議員A・シャリーイェフShaliev氏,クルグズスタン民族科学アカデミー候補A・オルズバーイェフOruzbaev教授,クルグズ共和国ムフティ代理ルグマル・ハジ・グアフノフLugmar-xadzhi Guaxunov,クルグズスタン・ドゥンガン人協会議長E・イスマイロフIsmailov,カザクスタン・ドゥンガン人協会議長X・ダウーロフDaurov,そして両協会の活動家たちも参加した.

 特にクルグズスタン人民詩人Ja・シヴァザ95周年祭(この枠内で雑誌創刊の披露宴は行われた)には中国から賓客が来た.その中には著名な歴史学者,堅実なモノグラフの著者,回族イスラームの専門家,寧夏回族自治区社会科学院長顧問,『回族研究』誌編集長楊懐中Ян Хуaйчжун / Jan Huaizhunがいる.披露宴の賓客には寧夏回族自治区社会科学院回族研究所長馬平Ма Пин / Ma Ping氏,陝西省の有名な企業家の1人,製薬会社社長サ・ポンチン Са Пынчжин / Sa Pengjin氏もいた.

 披露宴にはクルグズスタン民族科学アカデミー候補ムハメ・イマーゾフ教授を長とする民族科学アカデミーのドゥンガン学者たち及び指導的な医学者,医学博士ハキム・ベベーゾフXakim Bebezov教授その他が出席した.農業,商業の指導者,個人企業家,マスコミの代表者がいた.

 披露宴の参加者たちには財務相テミルベク・アクタマリイェフが熱烈な祝辞を述べ,ドゥンガン人とすべての出席者に中央アジア・ドゥンガン人の歴史において初めての社会=政治及び芸術=評論雑誌たる «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)を祝った.彼はこれがドゥンガン民族の文化生活における重要な出来事であることを指摘し,雑誌が興味ある,長期の,充実した生命を持つよう要望した.

 歓迎,祝賀の言葉は次の人々によって述べられた:

 -- 駐クルグズスタン中華人民共和国特命全権大使チャン・チミン氏

 -- 著名な学者,民族科学アカデミー候補,経済学博士,アサンガリ・オルズバーイェフAsangali Oruzbaev

 -- クルグズスタン・ドゥンガン人協会会長,クルグズ共和国人民芸術家イェセン・イスマイロフEsen Ismailov

 -- 『回族研究』誌編集長楊懐中氏

 -- 社会技術センター長アフマト・マデユーイェフAxmat Madejuevその他

 編集部及び編集委員会を代表して雑誌の編集長ラシド・ユスーポフが挨拶をン述べた.

 国際編集協議会議長テミルベク・アクタマリイェフは披露宴の貴賓たちに雑誌 «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)の第1号を手渡した.披露宴の参加者たちはくつろいだ雰囲気の中で歓談したが,ましてさまざまな中華料理とドゥンガン料理でよくしつらえたテーブルなどすべての条件が整っていた.出席者はみな歓談から肯定的なエネルギーを得た.夕べの会にはアレクサンドロフカ村のアンサンブル「シェンホ «Щенхо»」が中国,クルグズスタン,西洋の音楽を奏でた.

 ドゥンガン語雑誌第1号の披露宴は全体としてドゥンガン社会層の文化生活に活気をもたらしたが,われわれはその参加者たちの記憶に長く残ることを希望するものである.


«Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))国際編集協議会


*テミルベク・アクタマリイェフ―クルグズ共和国財務相,クルグズスタン・ジャーナリスト同盟会員,議長

*バイ・シBaj Si―「ドゥンガン文化・教育」社会財団発起人協議会議長

*ゲルション・アブサロムGershon Absalom―企業家(イスラエル)

*フセ・ダウーロフXusé Daurov―カザクスタン・ドゥンガン人協会会長

*デニオ・フオンDénio Xuon―慈善団体「イレ «Илэ / Ilé»」指導者(香港)

*E・ジャンリンDzhanlin―法人「ナンフ «Нанху / Nanxu»」総支配人,中華人民共和国新疆ウイグル自治区人民政治協商会議委員

*イェセン・イスマイロフ―クルグズスタン・ドゥンガン人協会会長,クルグズ共和国人民芸術家

*馬平―寧夏回族自治区社会科学院回族研究所長(中華人民共和国銀泉市)

*馬チリンМа Чилин / Ma Chilin―西北民族大学学長,教授(中華人民共和国甘粛省蘭州市)

*マネ・サヴーロフMane Savurov―ウズベキスタン・ドゥンガン人協会会長(タシュケント市)

*胡振華 Ху Чжэньхуа / Hu Zhenhua―中央民族大学教授,中華人民共和国チュルク学会会長,クルグズスタン民族科学アカデミー名誉会員(中華人民共和国北京市)

*余振貴 Юй Чженгуй / Yu Zhengui―中国伊斯蘭教協会副議長,歴史学博士,教授(中華人民共和国北京市)

*ラシド・ユスーポフ―「ドゥンガン文化・教育」社会財団議長,編集長,副議長

*ユスフ・ハジ Юсуф-хаджи / Jusuf-xadzhi―作家(マレーシア)

*楊峰Ян Фын / Yang Feng―『西北文化』誌編集長,散文作家(中華人民共和国ウルムチ市)


編集委員会


*ハキム・ベベーゾフ―医学博士,クルグズ国立医療アカデミー一般外科学講座長,クルグズ共和国功労医師

*ルグマル・グアフノフ―クルグズ共和国ムフティ代理,トクマク・モスク・イマーム・ハティブ

*スレイマン・グベザSulejman Gubeza―ウスク・アタ地区Ysyk-Atinskij rajonミリャンファン村アユル・オクモトゥajyl okmotu(村議会)議長

*マイウン・グンレイMaiun Gynlej―企業家,チュ州議会議員,イヴァーノフカ村

*マフムド・ディナフンMaxmud Dinaxun―モスクヴァ地区Moskovskij rajonアレクサンドロフカ村村議会議長

*ベハズ・ドゥヴァザ―ドゥンガン語教師,アレクサンドロフカ村

*エルスマ・イディーロフÉ rsma Idyrov―ウスク・アタ地区ケン・ブルン村議会議長

*ムハメ・イマーゾフ―クルグズ共和国民族科学アカデミー候補,フィロロジー博士,教授,クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン部局長

*ヒヤ・ラアフーノフXija Laaxunov―詩人,カザクスタン共和国クルダイ地区マサンチン村

*オスモン・ラニマモフOsmon Lanimanov―「回族」誌通信員

*ラヒム・ロサーノフ―クルグズ共和国国家電話ラジオ法人ドゥンガン部局編集長

*アフマト・マデユーイェフAxmat Madejuev―社会技術センター長

*ファティマ・マケーイェヴァ―フィロロジー博士候補,チュ大学教授

*ガリ・マリコフGali Malikov―イッスク・クル州議会議長,カラコル市

*アイシャ・マンスーロヴァ―児童作家

*ファティマ・マシンハーイェヴァ―テレビ放送「源泉への回帰 «Возвращение к истокам / Vozvrashchenie k istokam»」ドゥンガン語編集者兼アナウンサー

*ベラト・カスマフーノフ―クルグズ共和国ドゥンガン人協会副会長

*クルバン・ハヴァンシャノフKurban Xavanshanov―クルグズ共和国ドゥンガン人協会副会長

*ラシド・ユスーポフ―「ドゥンガン文化・教育」社会財団議長


雑誌第1号に際し雑誌の国際編集協議会議長T・アクタマリイェフと雑誌編集長R・ユスーポフの読者への呼び掛け


 社会=政治及び芸術=評論雑誌 «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))の全読者に歓迎と祝賀の言葉を捧げます.勤労を愛するドゥンガン民族は共和国で人口第4位の民族として主権ある多民族国家クルグズスタンの経済,文化,教育の発展に著しい貢献をしている.ドゥンガン語雑誌の発行はドゥンガン・ディアスポラだけでなくクルグズスタンのすべての民族の文化生活において重要な出来事であるとわたくしは思う.

このことはわが大統領アスカル・アカーイェフAskar Akaev大統領の「クルグズスタンはわれわれの共通の家」という考えの実現でもある.全ドゥンガン・ディアスポラの共通の努力のおかげでこのような印刷された機関誌の成功した機能ぶりが可能で必要であり,読者がドゥンガン文化への雑誌の貢献をあるがままに評価することを望む.

 雑誌の国際編集協議会委員と編集委員,そして全読者がドゥンガン語雑誌を全面的に支持することを呼び掛ける.

 すべての方々に健康,平穏,幸福を,そして雑誌「回族」に歯は繁栄と長い生命を希望する.

T・アクタマリイェフ


 中央アジア・ドゥンガン人の歴史上はじめて社会=政治及び芸術=評論雑誌 «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))が発行された.これはドゥンガン民族の文化生活での大きな出来事である.

 ドゥンガン人は多くの国と世界の諸地域に居住している.それ故われわれの雑誌には国際編集協議会が作られ,そこにはさまざまな民族と職業の人々が入ったが,彼らを統合しているのはただ1つ―ドゥンガン文化への配慮とそれに対する深い関心である.協議会には政治家,社会活動家,学者,作家,製造業の指導者と企業家が入る.協議会を代表するのは共和国ジャーナリスト同盟会員,主権国家クルグズスタンのイデオロギー,経済,政治,エコロジーのもっとも緊急な諸問題についての100以上の記事と刊行物の書き手,共和国財務相

テミルベク・アクタマリイェフである.

 われわれはドゥンガン・ディアスポラの尊敬する代表者たちの入る編集委員会に大きな期待をかける.彼らの見解,意見,判断をわれわれは高く評価するものである.

 われわれの雑誌はドゥンガン民族の物質的及び精神的文化のさまざまな側面を発展させることの諸問題を解決するのに分相応の貢献をする用意がある.

 雑誌のページはわが民族の文化を心配する人々のためにあけられている.われわれは無関心でいられないすべての人々に,われわれの雑誌のデータが内容豊かで有益であるように,雑誌に分相応の援助をくださることを呼びかける.

R・ユスーポフ