В токийском университете иностранных языков прошло «Международное научное совещание по проблемам центральноазиатских дунган», в котором приняли участие и ученые из стран Центральной Азии, в том числе Узбекистана
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- "Состояние и перспективы сопоставительных исследований русского и других языков", 2293.47kb.
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- История и историки: историографический вестник. 2006. М., 2007. С. 319-343, 368.17kb.
- Население современной россии: этносоциокультурный подход 24. 00. 01 теория и история, 771.87kb.
- На прошлой неделе вышло в свет третье издание отчета «Лизинг в Центральной Азии», подготовленного, 51.85kb.
- В. В. Путин провел совещание по итогам работы пфр в 2010 году Впонедельник, 11 апреля,, 42kb.
中央アジア・ドゥンガン人の過去と現在
ラシド・ウマーロヴィチ・ユスーポフ
ビシュケク人文大学世界経済講座長
ドゥンガン・ディアスポラの一般的データ
今の独立国家共同体,旧ソ連の領域に住んでいるドゥンガン人dunganeは基本的に約120年前中国からロシアの地に移住したドゥンガン人の子孫である.中国の西北部でのドゥンガン人蜂起の敗北の後蜂起参加者はその家族とともにアクスAksu市地区(新疆)で諸派に分かれ,ロシア国境に向かって3つの方向で動き始めた.
1877年初甘粛のドゥンガン人グループはユスフ・ハズレトJusuf-Xazretを頭として最初にロシア国境を越えた.このグループはチャニ・シャニTjan’-Shan’(天山)の犯しがたい雪のベデリBedel’ 峠とキシャスKishasu峠を克服し,現在のカラコルKarakolに総勢1116名で到着した.彼らにはカラコルから6-7キロメートルのところの土地が割り当てられ,彼らはイルドゥク村selo Irdykを創設した.
一番大きなグループ(陝西ドゥンガン人)はドゥンガン蜂起の詩g同社白彦虎Baj Jan’xuを頭に1977年12月初にロシア国境を越え,12月6日ナルン市g. Narynの国境警備隊に到達し,12月27日にはすでにトクマク市g. Tokmakにいた.その頃グループに歯3314名が残っていた.
第3のグループは馬大人Ma Daren / Ma Дажэнを頭とする甘粛ドゥンガン人で,さらに西北に向かった.彼らはエルケシュタムÉrkeshtam峠を越え,1877年12月後半にはフェルガナ渓谷Ferganskaja dolinaに入り,1878年初にはオシュ市g. Oshに総勢1779名で到着した.
この3グループのすべてはロシア領に入るに際してもっとも困難な経験をしなければならなかったことを指摘しなければならない.過酷な困窮,飢餓,雪の峠の寒さ全移住者のほぼ半分の命を奪った.
ドゥンガン人の2度目の移住は1881-1883年である.ロシアの許可によりイリ(クルジャ)地方のドゥンガン人とウイグル人はロシアの国籍を得て,ロシアに移住する可能性が与えられた.公式の資料によれば,ほぼ5千人のイリ・ドゥンガン人がカザクスタンとクルグズスタンの領域に移住した.
独立国家共同体におけるドゥンガン人人口の総数は現在約9-11万人をなす.彼らはだいたいクルグズスタン,カザクスタン及びウズベキスタンに分散している.
大多数のドゥンガン人チュ川reka Chu沿いに,その両岸に住んでいる.川の流れ(東から西へ)の右はカザクスタンの領域である.ここには次のようなかなり大きい村がある:マサンチンMasanchin(旧称カラ・クヌズKara-Kunuz,今までドゥンガン人はこれをインパンIn’panと呼んできた),トクマクTokmakから南西に6-7キロメートル;さらに川に沿って行くと,ショル・トベShor-Tjube(ドゥンガン人は「シンチュイ」«Sh'inchuj»,「新区」«Novyj rajon»
と名付ける),ここにはドゥンガン人だけが住む.さらに西に6キロメートル行くと,小さなザイームカ村selo Zaimka(開墾地)がある.以前ここには基本的にドイツ人が住んでいた.最近の15-20年間に大部分のドイツ人は自分の歴史上の祖国に移住した.彼らの代わりにドゥンガン人,主としてショル・トベShor-Tjubeからの移住者が移り住んだ.現在この村は20世紀初期に陝西ドゥンガン人の歴史に重要な役割を果たしたドゥンガン人活動家にちなんでブラル・バトゥルBular-Batyrという名を持っている.ドゥンガン人は小さな密な集団をなしてザイームカZaimkaより西にトルドヴィーク村selo Trudovik(働き者)とリスポーレ村selo Rispole(水田)にも住んでいる.
クルグズスタンのトクマクTokmakに戻ろう.現在これは約6万人の人口を持つかなり発達した工業都市である.19世紀後半にトクマクは中央アジア地域のロシアの要塞―軍事都市だった.クルグズスタンの現在の首都ビシュケクは当時まったく小さな入植地だった.現在トクマクの住民は多民族である.ここにはロシア人,ドゥンガン人,クルグズ人,ウズベク人,ウイグル人,タタル人,ウクライナ人等が住んでいる.ここのドゥンガン人はトクマクとマサンチンMasanchinからの移住者で,ドゥンガン人の一部は50年代末―60年代初に中華人民共和国から移住した人々である.トクマクより東10キロメートルにイスクラIskra(火花)という居住区があり,基本的な住民はこれまたドゥンガン人である.
チュ渓谷Chujslaja dolinaの領域では,トクマクからカントKantの都市型の居住区(ビシュケク東方20キロメートル)に至るまでほぼドゥンガン人の入植地がある.ドゥンガン人の居住区をあげると,ミチューリンMichurin,ドルージュバDruzhba(友好),ケン・ブルン村selo Ken-Bulun,デニーソフカDenisovka,フンチXunchi,イヴァーノフカp.g.t. Ivanovka,そして大きなミリャンファン村selo Miljanfan(ここを基礎にかつてコルホーズがあり,現在はM・ヴァナフンVanaxun記念株式会社がある)である.
ビシュケクから西に30キロメートルにクルグズスタン最大のドゥンガン人村の1つアレクサンドロフカAleksandrovkaがあり,ここの住民のほとんどがドゥンガン人である.ここには大きな収益ある集団農場「友好Druzhba」があり,クルグズスタンでは有名である.アレクサンドロフカから近くのビシュケク-タシュケントTashkent街道沿いにソクルク村selo Soklukとサドーヴォイェselo Sadovoeがあるが,住民の一部はやはりドゥンガン人である.
イッスク・クル州Issyk-Kul’skaja oblast’では州都カラコルKarakolの中心から7キロメートルほど脇に入ると,ドゥイシン村selo Dyjshin(勝利)がある.もともとこの村はイルドゥクIrdykと呼ばれたが,これはドゥンガン語の単語 “érdoguエルドグ”(cf. 北京:erdaogou二道溝)の訛りであり,「第2の渓谷」(カラコル市から数えて)を意味する.30年代にこの村を基礎に農業アルテリ「ドゥイシン(勝利)」が組織された.これは60年代初まで存続し,この時コルホーズの拡大を始まった.農業アルテリ「ドゥイシン(勝利)」は新しいコルホーズ「友好Druzhba」となった.
ドゥンガン人口の基本的部分からまったく孤立していたのが中国から南部新疆を通ってオシュ州Oshskaja oblast’(クルグズ共和国)に個別のグループをなして移住したドゥンガン人の一部である.20世紀の中葉に大部分のドゥンガン人はここからカラ・スー市g. Kara-Suに移住したが,ここでは農業生産のための土地が彼らに与えられた.後にここに上質の村が建設され,豊かな農場「クズル・シャルクKyzyl-Shark(赤い東方)」が現われたが,これは旧ソ連で有名な生産組織者ハイタフン・タシーロフXajtaxun Tashirovが指導したものである.彼の死後1963年にこのコルホーズは彼の名を記念した名称となり,彼の祖国に対する格別の功績により村の中央に彼の胸像が設置された.
現在多くの客観的理由によりここのドゥンガン人はほとんど自分の母語を失った.高齢の人々だけがドゥンガン語を理解し,話せる.彼らはすべて交際には基本的にウズベク語とクルグズ語を用い,ロシア語をも知っている.この村の出身者が少しウズベキスタンの州都アンディジャンAndizhanに住んでいるが,ここはカラ・スーから約40キロメートルある(中国から移住した時にここにとどまった家族がある).彼らの交際の用語はウズベク語である.
2つの国家クルグズスタンとウズベキスタンの州都を結ぶビシュケク―タシュケント自動車道路沿いにビシュケクから300キロメートルにカザクスタンの州都ジャンブル市g. Dzhambulがある.ここには,ジャンブルの郊外にジャルパク・トベ村selo Dzhalpak-Tjube(多くの者はこれをドゥンガーノフカDunganovkaと呼ぶ)があり,基本的な住民はドゥンガン人である.この村を基礎に大きな集団農場(コルホーズ)「十月Oktjabr’」が作られたが,これはその経済的成果によりカザクスタンに知られるようになった.この村の特色は大きな家であるが,どの家族もそれを建てようとする.ドゥンガン語とロシア語のほかにここの住民はカザク語とウズベク語を知っている.
アルマトゥAlmatyの郊外にザリャー・ヴォストーカZarja Vostoka(東方の曙)居住区がある.この居住区の住民のうちドゥンガン人が優勢だが,住民の代表はまたウイグル人,ロシア人等でもある.カザクスタン=中国国境とホルゴスXorgos税関から30キロメートルのところにジャルケントDzharkentがある(長い間この町は独ソ戦の時期にモスクヴァを防衛したパンフィーロフ将軍general Panfilovにちなんでパンフィーロフと呼ばれた).ここにもドゥンガン人は密集している.この町の引き立て役は20世紀初に現在のドゥンガン人の先祖によって建てられた伝統的中国様式のムスリム寺院である.現在この寺院は国家の保護する建築記念物である.
最近ウズベキスタンの州都タシュケントの近くにK・マルクスMarks記念コルホーズがあり,その住民はほとんどドゥンガン人である.タシュケント郊外のひとつコイルクKujljukにはやはりドゥンガン人が密集しているが,彼らはなおも母語を忘れず,ロシア語にも熟達している.
われわれはドゥンガン人密集地域をざっと眺めた.しかし最近の20-30年間に歳に住むドゥンガン人の人口が増加したことを指摘する必要がある.特にこのことはビシュケク,カラコル(クルグズスタン),アルマトゥ(カザクスタン)に見られる.結論として大部分のドゥンガン人住民がチュ川渓谷(両岸,すなわちクルグズスタンとカザクスタンの領域,東のトクマクからクルグズスタンの西方カラ・バルタKara-Baltaまで,カザクスタン国境近くまで)に分散していることを指摘しなければならない.トクマクからカラ・バルタまでの距離は120キロメートルである.
人口が少ないにもかかわらず,ドゥンガン人の間には有名な人々がいる.若者が自分の民族の歴史をよく知らないのは腹立たしいことである.
革命前の時期にクルグズスタンの首都にはロシア人,ドゥンガン人,ウズベク人,クルグズ人等々が住んでいた.市の基本的部分にはロシア人とドゥンガン人が定住していた.市の中心部(これは現在オシュ・バザールOshskij bazar及びクルグズ国立交響楽団Kirgosfilarmonija地区)はドゥンガーノフカDunganovkaとも呼ばれた.そして市の現在の中央の街路の1つキイェフ街ul. Kievskajaは長い間ドゥンガン街ul. Dunganskajaと呼ばれた.
もう1点,注意をそらしてはならないことがある.何十年も前ピシュペク市役所Pishpekskaja upravaの指導者の1人にリュリュズ・ハジ・マティヤンユLjuljuzy-xadzhi-Matjan’juという当時教養のある人がいた.彼の運命は悲劇的なことになった.革命後彼は反革命分子と中傷され,殺された.彼の子孫の一部はクルグズスタンに住んでいる.直系の子孫は彼の死後中国に,後にオーストラリアに渡り,そこに現在生きながらえている.
革命前の時期の特殊性の1つは多くの中央アジア諸民族の中でドゥンガン人だけが帝政ロシアの正規軍に服務させられていたことである.それ故,多くのドゥンガン人兵士は軍務に従事し,後にヨーロッパ戦線にいた時(第1次世界大戦の時期),革命運動に接した.革命と国内戦の有名な英雄の1人が伝説的なマガズ・マサンチンMagazy Masanchin(1885-1937)である.彼はアルマトゥに生まれ,タシュケントで鉄道輸送に従事していた時,革命運動に参加し,優れた革命家にしてソ連の政治家ミハイル・ヴァシーリイェヴィチ・フルンゼMixail Vasil’evich Frunzeのもっとも近い戦友であり,友人だった.マガズ・マサンチンの特殊な功績は独立したドゥンガン人騎兵連隊を組織したことである.この連隊は重要な役割を演じ,M・マサンチンは将来のソ連国防相M・V・フルンゼFrunzeが指揮したトゥルケスタン戦線Turkestanskij frontでの勝利に個人的に大いなる寄与をなした.
M・マサンチンはV・I・レーニンLeninと個人的に親交のあった中央アジア諸民族の唯一人の代表者だった.国内戦の後に彼はトゥルケスタンTurkestan,後にカザクスタンでさまざまな国家及び党の役職に就き,ドゥンガン人の文化と教育の発展に大きな貢献をなした.彼のイニシアチヴにより30年代にアルマトゥでドゥンガン人師範専門学校dunganskij pedagogicheskij texnikumが組織された.
ソ連における30年代の弾圧は祖国に対して大きな功績をなした多くの立派な人々の生命を奪い去った.M・マサンチンのこのような運命も通り過ぎず,彼は1937年に殺された.60年代初にマサンチンは,党と国家の多くの他の,罪なく犠牲になった活動家と同じく,名誉回復された.カザクスタンの大きいドゥンガン人村の1つカラ・クヌズKara-Kunuz(インパンIn’pan)はマサンチン村selo Masanchinと改称された.この村にはマサンチンの胸像が立ち,アルマトゥの中心街の1つはやはり彼の名を冠している.
1941-1945年のファシスト・ドイツとの大祖国戦争には多民族国家ソ連のすべての民族が参加した.各々の民族は,ドゥンガン民族の代表者を含めて,勝利に貢献した.彼らは戦争初期から1945年5月の勝利まで戦線の道を通り,1945年秋にはソ連の東での日本軍殲滅への参加者であった.1943年夏クルスクKurskaja dugaでの戦闘の時期にミリャンファンMiljanfan出身のマンスーザ・ヴァナフンMansuza Vanaxun軍曹が英雄的行為を行った.M・ヴァナフンの指揮する小隊は敵の優勢な力の前に陣地を守り抜いた.ほとんどすべての彼の戦友は死んだ.ファシストの「露助,降服しろ!」という要求に対してはヴァナフンは射撃で応じた.勢力は均衡を欠き,弾薬は尽き,戦友は死んだ.最後の手榴弾を持ってヴァナフン軍曹は,ファシストたちが彼に歩み寄った時,塹壕から飛び出し,大声を張り上げて「ロシア人は降伏しない!」と叫び,手榴弾の銓を抜いて自分とドイツ兵たちを殲滅した.
この英雄的行為によりM・ヴァナフンは死後ソ連の最高の勲章―ソヴェト連邦英雄の称号を授与された.彼の故郷ミリャンファン村では彼を記念して博物館が開館した.かつての大きなコルホーズ,現在の株式会社はマンスーザ・ヴァナフンの名を冠している.
ハイタフン・タシーロフXajtaxun Tashirovは集団農場の偉大な組織者だった.彼が指導していた時期に「クズル・シャルクKyzyl-Shark(赤い東方)」コルホーズは農業生産,殊に綿花の生産の向上における抜きんでた成功によって全連邦農業展覧会で金メダルと1級賞状を7つを獲得し,9人のコルホーズ員には社会主義労働英雄の称号が授与され,コルホーズの200人以上の働き手がソ連の勲章やメダルによって表彰された.このような成果を得た農業企業はクルグズ共和国には他にはひとつとてない!
X・タシーロフ自身社会主義労働英雄の称号を2度授与されている(1951年と1957年).彼はソ連最高会議の代議員に1回,クルグズスタン最高会議代議員に3回選ばれた.祖国に対する格別な功績によってソ連最高会幹部会の決定により彼の故郷に胸像が設置され,1963年彼の死後コルホーズは彼の名によって名付けられた.
70年代以後ソ連では自動車工業,特に乗用車の生産が急速に発展し始めた.70年代初にクイブイシェフ州Kujbyshevskaja oblast’[現サマーラ州Samarskaja oblast’]のトリャッティ市g. Tol’jattiにソ連最大の「ラダLada」車生産工場(年間100万台の生産能力を持つ)が稼働した.全国で国民経済の新しい分野―「ラダ」車の修理,技術サーヴィス,販売―が発達し始めた.
この分野で大きな組織者としての能力を見せたのは若い専門家,自動車技師,ビシュケクの技術大学の卒業生ユヌス・ドゥンラルJunus Dunlarである.1970年代後半から彼はクルグズスタンの「自動車技術サーヴィスAvtotexobsluzhivanie」副議長として働いている.80年代初にこのシステムからは自動車「ラダ」だけに従事する “AvtoVAZ”(ヴォルガ自動車工場)の独立した支社が分離した.このことは「ラダ」がソ連の市場で主要な位置を占め,「国民」車となったことと関連がある.クルグズスタンではユヌス・ドゥンラルがこの組織を指導した.まさに彼のイニシアチヴにより乗用車のサーヴィスに関する多くの近代的な施設が建設され,彼の指導のもとに国民経済のこの分野もまた国庫に利益をもたらし始めたのである.
90年代初にはJu・ドゥンラルの指導による技術サーヴィスのシステムはクルグズスタンにおける最初の大きな株式会社の1つになり,「チャニ・シャニ・ラダTjan’-Shan’-Lada(天山=ラダ)」と呼ばれた.株主はかれを一致して社長に選んだ.彼はクルグズスタン功労自動車技師zasluzhennyj avtomobilistという名誉称号を授与された.
ユヌス・ドゥンラルはクルグズスタンの著名な社会的及び国家的人物だった.1990-1994年共和国最高会議(議会)代議員となり,若い主権国家の社会生活に積極的に参加した.ところで1990年にはソヴェト連邦のドゥンガン人住民は彼をソヴェト・ドゥンガン人協会Associacija sovetskix dungan議長に選んだ.彼はクルグズスタンの国家及び政府代表団の一員として世界の多くの国を訪問した.彼の生涯は1995年2月,まだ52歳の創造力の最盛時に悲劇的に断ち切られた.
Ju・ドゥンラルの直接の参加と指導によりカザクスタンとクルグズスタンを結ぶチュ河の橋(トクマク郊外)が建設された.現在この橋はJu・ドゥンラル記念橋と呼ばれる.ドゥンラルという人物に独立国家共同体のドゥンガン人は偉大な息子を失い,クルグズスタンは著名な国家的及び政治的活動家,偉大な産業組織者を失った.
ソ連崩壊とともに新たなレアリアが生まれた.1994年クルグズスタン・ドゥンガン人協会Associacija dungan Kyrgyzstanaとカザクスタン・ドゥンガン人協会Associacija dungan Kazaxstanaが組織され,それぞれイェセン・イスマイーロフEsen Ismailovとイスハル・ロウIsxar Louが指導した.ロウはほとんどがマサンチン村の住民からなるコルホーズの議長である.
イェセン・イスマイーロフはカンフー(功夫)の選手としても作曲家としても知られている.彼はクルグズ国立芸術大学Kyrgyzskij gosudarstvennyj institute isskustvを卒業し,50以上も歌を作曲したが,その多くは民衆のものとなった.彼の組織した「チュンティヤンChuntjan(春)」という舞台アンサンブルはロシア,ウクライナ,カザクスタン,タジキスタン,中国を巡回公演した.E・イスマイーロフの生涯と活動については「カザクフィルムKazaxfil’m」のスタジオで2部からなるドキュメンタリー映画が撮られた.
E・イスマイーロフの活動は社会活動はまた多様だった.彼は人民代表議会Sobranie narodnyx predstavitelej(共和国議会)代議員,クルグズスタン陸上競技連盟federacija legkoj atletiki Kyrgyzstana議長である.1995年12月23日クルグズ国立交響楽団において作詞作曲家E・イスマイーロフの夕べが催されたが,ここには国家と政府の高官が出席した.ドゥンガン民族とその輝かしい代表者イェセン・イスマイーロフに関して当時の共和国大統領アスカル・アカーイェフAskar Akaevと文化相チョルポンベク・バザルバーイェフCholponbek Bazarbaev等が祝辞を述べた.
イェセン・イスマイーロフは東洋式格闘技国際センターMezhdunarodnyj centr po vostochnym vidam edinoborstv総裁であり,ビジネスに従事し,クルグズ共和国ドゥンガン人協会長のような要職に就いている.クルグズスタン功労文化活動家及びクルグズスタン人民芸術家という名誉称号を持っている.
1996年はドゥンガン文字創始者,ドゥンガン人の最初の詩人にして作家のヤスル・シヴァザJasyr Shivaza(1906-1988)の生誕90周年である.彼は詩人,作家,学者,社会活動家,戦争参加者,クルグズスタン作家同盟指導者の1人としてクルグズスタンだけでなく,全旧ソ連でよく知られている.彼の本は独立国家共同体諸民族の多くの言語に訳されている.
現在ドゥンガン・ディアスポラの代表者たちたる学者が多く以下の如く知られている.ムハメド・スシャンロMuxamed Sushanlo―クルグズスタン民族科学アカデミー候補会員,教授,クルグズスタン功労科学活動家という名誉称号を持つ,クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン部局長;ジャマル・カリーモフDzhamal Karimov―数学教授,長い間フェルガナ師範大学Ferganskij pedagogicheskij institut講座長;フセイン・ブガーゾフXusejn Bugazov―教授,クルグズ民族大学Kyrgyzskij nacional’nyj universitetロシア語講座長;ハキム・ベベーゾフXakim Bebezov―診療所主任,腫瘍専門医,教授,医学博士,クルグズスタンとカザクスタンで知られる外科医,高度に熟練した多くの専門家を養成した,クルグズスタン功労医師という名誉称号を持つ;イスハル・フンロエルIsxar Funloér―アカデミー会員アフンバーイェフ診療所klinika akademika Axunbaeva教授,医学博士,クルグズスタンで知られる外科医,何百という手術を行う,クルグズスタン功労医師という称号を持つ.このほかにI・フンロエル教授はクルグズスタン政府所属最高資格審査委員会Vysshaja attestacionnaja komissija (VAK) 幹部会委員,医学・農学VAK検査評議会指導者;イリヤス・パンパザIl’jas Panpaza―カラコル大学Karakol’skij universitet物理学講座長,准教授;アブドゥル・マンスーザAbdul Mansuza―長くカラコル大学ロシア語講座学部長,現在ビシュケク人文大学Bishkekskij gumanitarnyj universitet講座長;イリヤス・ユスーポフIl’jas Jusupov―アルマトゥ市のカザク国立師範大学Kazaxskij gosudarstvennyj pedagogicheskij universitet歴史学講座長,教授.
次のような農業生産の偉大な組織者,コルホーズ,ソフホーズ,株式会社の指導者について語らなければならない.ムハメド・チンヴァMuxamed Chinva,ドゥンラル・スシャンロDunlar Sushanlo,エルスマネ。イスマイェフÉrsmane Ismaev(1990-1995年にクルグズスタン最高会議代議員),ムハメト・サリハルMuxamet Salixar,ラマザン・エルサRamazan Érsa,ユスル・マロフJusur Marov,シャムスッディン・ジャマーロフShamsutdin Dzhamalov,パンパザ・アリーイェフPanpaza Aliev,ラシド・ユガジイェフRashid Jugaziev等々.
高度に職業的な専門家,有名な活動家シャリプ・マシュヘイSharip Mashxejを特に挙げよう.彼は食料品生産と関連あるすべての省が入ったクルグズスタン国家農工業委員会副議長で,後に果実野菜農場相,さらにそれが株式会社に改変された時,その総裁になった.
ドゥンガン人代表者がなした体育及びスポーツの発展に対する寄与を挙げないわけにはいかない.まず現在クルグズスタン・キックボクシング選抜チームのコーチで優れたスポーツマンアレクサンドル・ヴォーイノフAleksandr Voinovの名を挙げよう.A・ヴォーイノフはカンフーに取り組むイェセン・イスマイーロフの最初の弟子の1人である.後に,彼は自分の格別の能力のおかげで,ソ連選挙権大会のの受賞者と世界チャンピオンとなり,プロのスポーツマンとしてアメリカに進出し,何度か納得させることのできる勝利を収めた.彼には高額の給料とよい条件を保証するので,アメリカにとどまるよう1度ならず申し出があった.プロのリングを放棄して,ヴォーイノフは多くのスポーツマンの養成に積極的にたずさわった.国家が世界クラスのスポーツマンの養成に資金提供できないので,A・ヴォーイノフは独立国家共同体では初めての1人としてプロのクラブ「ヘルメス・プロフェッショナルGermes-profi」を組織して,自ら会長の役割を引き受けた.
彼はスポーツマンたちの生活の面倒を引き受け,彼らに見合う給料を保証しているので,直接のコーチの仕事のほかに,多くの組織上,経済上の諸問題にたずさわっている.ヴォーイノフのおかげで,クルグズスタン・キックボクシング選抜チームの若いクルーは急速に世界的レヴェルに進出した.クルグズスタンのクルーは独立国家共同体で指導的な地位を占め,1995年フランス選抜チームに勝った.ヴォーイノフの弟子の数人はプロの間で世界チャンピオンになった.ヴォーイノフと彼のスポーツマンたちのおかげで,世界はクルグズスタンを知った.1995年ヴォーイノフはクルグズスタンの最良のコーチと認められ,早くも彼にはクルグズスタン功労コーチの称号が授与された.
ドゥンガン・ディアスポラの代表者たちはクルグズスタンの芸術に大きな貢献をした.舞台芸術の分野ではクルグズスタン・オペラ・バレー劇場のソリストの1人フセイン・ムフターロフXusein Muxtarovが大きな成功を収めた.
彼は劇場の一座の一員として世界の多くの国を巡回し,旧ソ連の他民族的芸術を示した.彼はその多面的な俳優活動によってソ連人民芸術家という最高の称号を授与された.彼はクルグズスタン人民芸術家の妻エセン・モルドクーロヴァÉsen Moldokulovaとともに真の音楽一家を作った.3人の子供はみな成人になって高等音楽教育を受け,プロの芸術家となった.フセイン・ムフターロフ音楽一家はしばしばクルグズスタンだけでなく遠く外国でもコンサートの巡回公演をしている.
クルグズスタンにはモスクヴァとレニングラードの美術大学で専門教育を受けたプロの美術家たちがいる.彼らのうちの1人レニングラード美術大学Leningradskij xudozhestvennyj institutの卒業生シャバーゾヴァ・サリマShabazova Salimaは長い間国立造形芸術博物館Gosudarstvennyj muzej izobrazitel’nogo isskustvaの館長をし,クルグズ共和国住民の美術及び美学教育に大きな貢献をなした.
ドゥンガン人が誇ることができ,国民経済のさまざまな分野の発展,そして文化,科学,教育,芸術,スポーツの分野に著しい貢献をなしたもっと多くの人々の名を挙げることができるのである.
クルグズスタンにおけるドゥンガン人の人口と分布
1999年の国勢調査によれば,クルグズスタンでは51,766人のドゥンガン人がいる(表1参照).カザクスタンでは同じ国勢調査によれば,ドゥンガン人の数は3.69万人である(表4参照).したがって,この2つの共和国には約8.87万のドゥンガン人が居住している.われわれはウズベキスタンにおけるドゥンガン人の数に関する正確な資料を持たない.われわれの推算によれば,それはほぼ2,500人ほどだろう.これは1870年代初-1880年代末にこの領域に最初に移住したドゥンガン人の数を10倍超えている.
表 1
クルグズスタンにおけるドゥンガン人人口
(1999年の国勢調査による)
-
地域
人口 (人)
総数の%
ビシュケク市 г. Бишкек
3,558
6.9
州
チュ州Чуйская
43,958
84.9
イッスク・クル州Иссык-Кульская
2,948
5.7
ナルン州Нарынская
399
0.8
タラス州Таласская
128
0.2
オシュ州Ошская
742
1.4
ジャララバード州Джалал-Абадская
24
0.05
バトケン州Баткенская
9
-
計
51,766
100
表1の資料によれば,1999年にドゥンガン人の圧倒的多数―約85%―がチュ州に住んでおり,ビシュケク市の住民の分を合わせると,91.8%になる.他の地域のうちイッスク・クル州を取り出すことができるが,ここではほぼイルドゥク市と州都カラコル市に2,947人が住んでおり,共和国全体のドゥンガン人の5.7%をなしている.
したがって,チュ渓谷とイッスク・クル州に50,464人(97%)すなわちドゥンガン人の絶対的多数が住んでいるのである.他の地域ではオシュ州に742人(1.4%),ナルン州に399人(0.8%)が住んでいる.
クルグズスタンにおけるドゥンガン人住民の人口の力学を共和国居住主要民族の数の構造の変化を考慮して観察しよう.
クルグズスタンには80以上の民族の代表者が住んでいるとはいえ,すでに百年以上も主要なエトノスとして残るのはクルグズ人,ロシア人,ウズベク人である.この3つの民族は人口の絶対的多数をなしている:1926年―89%, 1939年―82.9%,1959年―81.3%,1970年―84.3%,1979年―85.9%,1989年―86.8%,1999年―91.2%.
クルグズ人の数は著しく増大した.1926年の人口が66.87万人ならば,1999年には300万人台を超え,312. 81万人となり,4.6倍も増大した.最近数十年の全人口でクルグズ人は絶えず増大した.例えば,1959年に40.5%(1926年から1999年までの期間で最低の数)ならば,それに続く国勢調査では43.8%; 47.9%; 52.4%であり,1999年には40.5%に達した.共和国からの人口の流出が止まない限り,この数は今後も増大するであろう.
クルグズスタンの第2の主要な民族は,1999年の記録によれば,ウズベク人である.1926-1999年の期間に全人口のうちウズベク人は10%以下に下がることはなく,最近数十年間この数は増大への安定した傾向を示している.例えば,1939年に10.4%ならば,それに続く国勢調査では1959年―10.6%,1970年―11.3%,1979年―12.1%,1989年―12.9%,1999年―13.8%となる(表2参照).
共和国におけるウズベク人住民の数の増加は基本的に自然増によるものであることを指摘しなければならない.ウズベク人住民の絶対的数は,1999年の国勢調査によれば,66.49万人であり,これはロシア人の数より6.17万人多い.共和国からのロシア人の流出が続くならば,近い将来及び長期の展望においてウズベク人住民はクルグズスタンにおける人口では第2位を確実に占めるであろう.2020年頃にはウズベク人の数は百万人以上に達することもあり得る.ソヴェト時代にはロシア人の数がウズベク人の数よりも2-3倍多い時期があった.
共和国で住民数で第3位はロシア人である.70年代中葉までロシア人住民の機械的な増加は著しいものがあった.1972年-1989年の時期にロシア人の数は安定した―計0.5%増えた(91.17万人から91.65万人に).この時期クルグズ人の数は32%増加している(168.74万人から222.97万人に).ついでながら2989年にはロシア人の最大の数は固定化されている(91.65万人).
ソヴェトの全時期を通して,そして90年代まではロシア人は数では第2位を占めていた.例えば,1959年からはロシア人とウクライナ人の2民族は共和国の総人口の36.8%であるが,他のロシア語住民の数を考慮に入れれば,40%以上になり,すなわちそれらの総数はクルグズ人の総数と等しかったのである.この期間ロシア語住民の数はその最高値に達した.
ソ連崩壊後に一定の政治的及び社会的=経済的理由により,すべての旧加盟共和国からロシア語住民,特にロシア人が集中的に出て行くことになった.例えば,1999年の最後の国勢調査ではクルグズスタンにおけるロシア人は60.32万人(1989年より31.33万人少ない),すなわち1989年の水準の65.8%である.この期間クルグズ人の数は40.3%増えている(222.97万人から312.81万人に).60年代以降総人口におけるロシア人の数が絶えず減少している.例えば,1959年にこの数が30.2%ならば,それに続く期間は29.2%(1970年),25.9%(1979年),21.5%(1989年),12.55(1999年)である.共和国で出来上がった社会的=経済的状況を考慮すれば,この数は将来も低くなるであろう.
国勢調査の記録によれば,クルグズスタンにおける住民数で第4位はドゥンガン人である.約百年以上もの間住民数で第4位を占めて来たのはウクライナ人だったことを指摘しなければならない.40-50年代に彼らの数は14万人に達したが,60年代初からウクライナ人の数は絶えず低下してきた.例えば,1959年にその数が13.70万人ならば,1999年には5.04万人である.10年間に(1989年-1999年)その数は2倍以上も減少した.ソヴェトの全期間を通じて共和国総人口でそれぞれ第5位と第6位を頑強に保って来たドイツ人とタタル人には移民流出が観察される.これらの民族の数は1970年と1979年には94%,1989年には94.3%である.
ドイツ人の数は1926年には0.43万人だが,それに続く数十年の間にまっしぐらに増大し,70-80年代に10.13万人以上という最大の値に達した.10年間(1989年-1999年)に約8.00万人のドイツ人が自分の歴史的祖国に出て行き,彼らの数は4.7倍以上にも減少し,10.13万人から2.15万人に減少した.クルグズ共和国では10年間にさほどに大きく減少した民族は1つもなかったことを指摘しなければならない.
1926年にタタル人の数は0.49万人だった.国勢調査によれば,最大の数は1979年に達した(7.20万人)が,そののち低下が始まり,特に過去10年間に7.01万人から4.55万人,すなわち1.5倍以上の減少をもたらした.
さらにクルグズスタンにおける住民数では数十年の間にそれらにウイグル人,カザク人,ドゥンガン人,タジク人が続いた.50年代以降その数は変化しなかったが,数の増大は,多分カザク人の他は,ほぼ自然増によって説明される.このグループでは30年代以降ドゥンガン人は数では第4位を占めている.(例えば,1939年カザク人は2.39万人,タジク人1.06万人,ウイグル人0.94万人,ドゥンガン人0.59万人だった).
1999年の国勢調査の記録では,相関関係は違うように見える:ドゥンガン人―5.18万人,ウイグル人―4.67万人,カザク人―4.27万人,タジク人―4.26万人.
1989年-1999年の国勢調査の時期に共和国の住民数が13.3%増加したならば,クルグズ人とドゥンガン人の数は40.3%,タジク人は27.2%,ウイグル人は26.9%,カザク人は14.3%増加している(表2).
表2
クルグズ共和国主要民族グループ人口
(1926-1999の国勢調査による.千人)
主要民族 | 1926 年 | 1939年 | 1959年 | 1970年 | 1979年 | 1989年 | 1999年 |
クルグズ人 | 668.7 | 754.3 | 836.8 | 1284.8 | 1687.4 | 2229.7 | 3128.1 |
ロシア人 | 116.8 | 302.9 | 623.6 | 855.9 | 911.7 | 916.5 | 603.2 |
ウズベク人 | 106.3 | 151.6 | 218.6 | 332.6 | 426.2 | 550.1 | 664.9 |
ウクライナ人 | 64.2 | 137.3 | 137.0 | 120.0 | 109.3 | 108.0 | 50.4 |
ドイツ人 | 4.3 | 11.7 | 39.9 | 89.8 | 101.1 | 101.3 | 21.5 |
タタル人 | 4.9 | 20.0 | 56.3 | 69.4 | 72.0 | 70.1 | 45.5 |
ウイグル人 | 8.2 | 9.4 | 13.8 | 24.9 | 29.8 | 36.8 | 46.7 |
カザク人 | 1.7 | 23.9 | 20.1 | 22.0 | 27.4 | 37.3 | 42.7 |
ドゥンガン人 | 6.0 | 5.9 | 11.1 | 19.8 | 26.7 | 36.9 | 51.8 |
タジク人 | 7.0 | 10.6 | 15.2 | 21.9 | 23.2 | 33.5 | 42.6 |
他 | 13.6 | 30,4 | 93.5 | 91.5 | 108.0 | 137.5 | 125.4 |
計 | 1001.7 | 1458.2 | 2065.8 | 2932.8 | 3522.8 | 4257.7 | 4822.9 |
ドゥンガン人住民は中央アジアにおける1世紀以上の滞在の間にわが歴史における悲劇的なページと関連した移民的経過をも経験した.反ツァーリズム示威行動によって知られる1916年の事件にはドゥンガン人も参加した.何百,何千という蜂起したドゥンガン人家族は,クルグズ人ともカザク人とも同じく,鎮圧された後に,生まれた土地を捨てて中国,大体は新疆に,移住せざるを得なかった.1924年ソヴェト政権指導部の呼び掛けにより去った者の大部分は故郷に戻った.第2の移民の波は集団化と富農撲滅の時期に属する.1923年から1933年までドゥンガン人の著しい部分は再び放浪するようになり,その結果多くは再び中国にいることになった.このことによって1926年との比較における1936年のドゥンガン人の減少は説明される.そのうち多くは50年代後半にやっと故郷に戻って来た.50年代末と60年代初に先鋭化した中国の社会的=経済的危機のため,カザクスタンと国境を接する地区に居住する住民のある部分はソ連に逃亡せざるを得なかった.それらの大部分はカザク人,ウイグル人,そして少数はドゥンガン人だった.
表2には1926年から1999年までの期間の国勢調査の記録によってクルグズスタンの10の主要民族の数が示されている.1999年の国勢調査ではこの10のうちドイツ人が落ち,その位置をトルコ人が占め,3.33万人となる.
したがって,クルグズスタンの10の大民族は1999年の国勢調査により次の順序となる:クルグズ人,ウズベク人,ロシア人,ドゥンガン人,ウクライナ人,ウイグル人,タタル人,カザク人,トルコ人.この10の民族に隣接するのはドイツ人(2.15万人),朝鮮人(1.98万人),アゼルバイジャン人(1.40万人),クルド人(1.16万人)である.ある民族の代表の数は1万人にも達せず,これらの大部分は2-3千人を超えない.