В токийском университете иностранных языков прошло «Международное научное совещание по проблемам центральноазиатских дунган», в котором приняли участие и ученые из стран Центральной Азии, в том числе Узбекистана

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ドゥンガン語雑誌への評


 中央アジア・ドゥンガン人の歴史上はじめての社会=政治及び芸術=評論雑誌の発行はドゥンガン・ディアスポラの文化生活において実際に重要な出来事となった.この出来事にクルグズスタンのすべてのマスコミが―新聞もテレビも―しかるべき注意を払った.

 中国の国外での初めてのドゥンガン語雑誌の発行は注意をひかないわけがなかった.この出来事を扱ったのが2001年に全中国の雑誌「回族研究」第4号に載った歴史学博士丁宏 Дин Хун / Ding Hongの論文である.論文ではドゥンガン語雑誌の発行が社会=経済的危機と客観的困難にもかかわらず自己の独自の文化の保持と発展の道を探求することを継続している中央アジア・ドゥンガン人インテリゲンチヤの精神力を証明するものであると指摘されている.中国のこの雑誌には雑誌の国際編集協議会議長,クルグズスタン財務省テミルベク・アクマタリイェフと編集長ラシド・ユスーポフの読者への呼び掛けのテキスト全文が載せられている.中国のさまざまな地域での回族研究センターは雑誌「回族」のデータを研究している.疑いもなくこの雑誌の刊行は何十年にもわたって互いをあまり知らなかった中国と中央アジアのドゥンガン人(回族)を著しく近づけた.このことすべては文化発展の過程,そして中国及び中央アジア諸国の諸民族間の友好を深めることを活気づけるのである.

 それと同時に雑誌を実現し,読者と交流する過程で編集者たちには多くの批判的意見と建設的な要望が語られた.殊に,読者は雑誌が効果となったと考えている.クルグズスタンでは出版事業が,中国とまでは言わないまでもロシア,カザクスタンよりも高いから(携帯電話同様),それはまさにその通りである.

編集部は,上掲の国々での雑誌の出版は,既成の製品がクルグズスタンに最後に搬入されるので,著しい出費がかさむと考える.このほかに,小部数(500部)の刊行では単価を安くすることが出来ない.しかし質を下げないで雑誌の価格を下げることがわれわれの日常の仕事の主たる目標の1つである.

 何人かの読者は,特に雑誌の第1号に見られたのだが,編集部が自伝的記事を優遇していると指摘している.多くの読者がドゥンガン人の歴史についてのデータをもっと多く示してほしいと希望を述べた.彼らの意見ではドゥンガン人は自分の豊かな歴史を非常に少ししか知らないのである.読者は生活のさまざまな側面,中央アジア・ドゥンガン人の文化生活,精神生活の諸問題についてもっと多くのデータが雑誌になければならないこと,クルグズスタン,カザクスタン,ウズベキスタンの間の国境は中央アジア地域に居住するドゥンガン人の情報の場を狭めてはならないことを正当にも指摘している.

 雑誌の編集部に入って来たいくつかの評に読者の注意を喚起したい.


雑誌「回族」はドゥンガン文化の重要な部分である


 5月16日「ドゥンガン文化・教育」社会財団の招待によりわたくしは社会=政治及び芸術=評論雑誌 «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))第1号発行の披露宴に出席した.しばらくたって編集長がわたくしに新しい雑誌の見本を贈呈の署名とともにくれた.わたくしはこの美しい雑誌を開いた;わたくしの眼の前には広々とした空間が開けた;わたくしはドゥンガンの世界に包まれたのだ.雑誌の豊かな内容がわたくしをひきつけ,わたくしはただただそれから離れられないありさまだった.この雑誌はわたくしの心に深い感覚を呼び覚まし,わたくしに忘れがたい印象を植え付けた.

 中央アジアの歴史において初めての社会=政治及び芸術=評論雑誌 «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))第1号の発行はドゥンガン民族の政治的,文化的生活における重要な出来事である.この雑誌に敷設された15名からなる国際協議会は代表性と権威性を持っている.120余年前にドゥンガン人は中央アジアに移住し,現在彼らは世界の多くの国と地域に居住している.それ故国際協議会の設立は完全に必要であり,あらゆる面で熟慮されたものである.編集長R・ユスーポフは協議会には「政治家,社会活動家,学者,作家,製造業の指導者と企業家(カザクスタン,クルグズスタン,ウズベキスタンのドゥンガン人協会会長,北京,蘭州,銀泉,ウルムチ,中国香港からの,そしてイスラエルとマレーシアからさえ有名な代表者を含む)」が入ると述べている.

 この協議会の議長はテキルベク・アクタマリイェフであり,クルグズ共和国財務相,クルグズスタン・ジャーナリスト同盟会員,クルグズ共和国教育・保険・スポーツ優秀勤労者,「オシュ―3000」,「 ダンク«Данк»」国家勲章受章者,著書及び経済,エコロジー,イデオロギー等の諸問題に関する100以上の評論の書き手である.そのような国際的な協議会は広範な読者の心に雑誌の発展の正しい方向,高い権威,深い信頼を保証するのである.

 19人からなる雑誌の編集部はしっかりした知識と豊かな実践の仕事の経験を持つ高度に熟練し能力ある組織である.そのメンバーの中には博士と修士(博士候補),教授と准教授,学者と専門家,作家と詩人,通信員と編集者がいる.それらのうちの1人ムハメ・イマーゾフはクルグズ共和国民族科学アカデミー候補,フィロロギー博士,教授,有名なドゥンガン学者,クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン部局長である.

 編集長ラシド・ユスーポフは「ドゥンガン文化・教育」社会財団議長及び国際協議会副議長である.多年にわたって彼は大学教師として働きつつ,これと「回民報」紙の編集長職とを両立させた.彼は経済学者として中国人民大学(北京)に留学したことがあり,よき教育者の1人であり,基準にかなった経済学者,経験ある編集者である.

 このような強力な,高度に熟練した,熱意ある編集員は読者に雑誌が愛と尊敬を勝ち得るであろう高いレベルと質を保証するのである.

 雑誌の記事のテーマは豊かで多様であり,印刷は優雅で美的である.写真,参照記事,データは論理的な整然とした構成を作る.すべてはドゥンガン民族の歴史,現在の生活,すばらしい未来を開くものである.雑誌の第1号は読者を生き生きとした形式,多い内容,芸術的な手法によって魅了し,人の心を沸き立たせ,自分の民族に対する誇りの感情を駆り立てる.第1号には60以上もの記事が載せられたが,そのジャンルは詩,散文,ッルポルタージュ,評論,ニュース,論評,傳奇,インタヴュー,記念行事等々と多様である.

 現在ドゥンガン人は中央アジアの政治,経済,文化生活において大きな役割を演じている.雑誌 «Xуэйцзу / Xuéjczu»(回族)(ロシア語:«Дунгане / Dungane»(ドゥンガン人))はドゥンガン民族の現在の生活と創造的勤労をより多く,よりよく反映させるであろう.

 われわれは編集部のすべての協力者の熱意ある創造的勤労に心から感謝し,雑誌が号を重ねるごとに一掃よくなるよう望むものである.

中国の読者シュイ・チアジュン Сюй Цзяжун / Xu Jiazhun教授

ビシュケク市

2001年8月28日


書き手について.シュイ・チアジュン氏は蘭州大学外国文学講座教授,ロシア文学の専門家,研究者,翻訳家である.ソヴェトの作家,特にM・ショーロホフ,M・ゴーリキー等の小説を中国語に訳して来た.ロシアに留学,1985-1986年にサンクト・ペテルブルク(ゲルツェン記念師範大学),後に2年間1995-1997年ブルガリア(大学,ヴェリコ・タルノヴォ市).クルグズ=ロシア=スラヴ大学の招請で1年間シュイ・チアジュンはわれわれのところで中国語を教えた.今年11月彼の留学は終わった.


現代におけるドゥンガン文化のいくつかの問題


小さな文化は存在しない


 自己の独自の文化,伝統,重要な富―言語を保とうとする自然の要求を無視すると,予測できない結果を招くことになる.広範な世論は加盟共和国と自治共和国という名称を与えた主要民族の言語を守るために取られた方策に関する諸事件に明るい.それは過去50年間地方の住民,特に都市の住民が悲惨なほどのテンポで自己の言語を失ったことの結果である.都市には民族語を教える学校,児童教育機関等が不充分だった.この分野での不幸な状態については多くを語り得る.したがって,各々の民族が自己の民族と民俗文化を発展させることの自然な法的必要が無視されてきたし,もしも満たされたとしても,完全からはほど遠いのである.このことは社会における社会的緊張の原因の1つとなったのである.そのような状況は自己の国家体制を持つ大民族だけでなく自己の領土を持つ民族的国家体制を持たない少数民族にも特徴的である.知られるように,われわれのところにはそのような民族が何十とある.そのような諸民族の民族文化的発展の単純でない状態はドゥンガン人を例として追及し得る.

 絶対的多数の成人住民は自分の母語でかすかに交際し得る.例えば,10単語からなる文のどれでも3-4語はロシア語,2-3語はクルグズ語,4分の1だけが本来のドゥンガン語である.そして何語をわれわれは自分の子供に教えられるのか? ドゥンガン人民族学校はない.ドゥンガン人住民密集居住地域では学校で母語が教えられる.しかしドゥンガン語の資格ある教師は不足している.それよりも,そういう教師はどこでも養成されていない! 1988年にのみクルグズ国立大学では15人定員のドゥンガン語・ドゥンガン文学科を開設した.誇張なしにこの出来事はわが民族にとって歴史的意義を持つと言える.現在ドゥンガン語の教育は熱心な人々に依拠して保たれている.教師に教授法を教育するなど問題にもするべきではない.熱心な教師の準備した教科書は毎年印刷されることを待っているが,それが世に出た時には誰にも知られないのである.人数の少ないクルグズ・ソヴェト社会主義共和国科学アカデミー・ドゥンガン部局では教育,教授法の文献を充分に準備することはできない.ここの主たる任務は研究活動なのである.この点では,わたくしの見解では,部局の定員を拡大して,母語教育の経験を持つ専門家が教科書と教授法の参考書の作成を完全に自己に課すべく,彼らを補充することは目的にかなっている.

 われわれの見解では,少数民族の社会=文化的発展は国家的に重要な課題であり,この課題は国家の援助なしには解決されない.熱心さだけでは結果が得られない.われわれの国が困難な時期を経験しているとはいえ,問題は解決されなければならないのである.

 歴史を思い起こす必要がある.ソヴェト政権の初期にはわが国は大きな財政的=経済的困難を経験していた.それにもかかわらず,わが国家はかつてのツァーリの辺境の社会=経済的発展やこれらの地域に居住するすべての民族の文化の高揚に手段と力を惜しまなかった.まさにこの時期に何百というドゥンガン人青年男女は主要民族(クルグズ人,カザク人,ウズベク人等々)の代表者たちとともにモスクヴァ,レニングラード,タシュケント,アルマ・アタその他の連邦の諸都市の大学や中等専門学校で教育を受けたのである.当時住民は根幹民族,非根幹民族に分けられることなく,社会=経済的水準の高揚においては根幹民族も少数民族も等しく必要とされたのである.当時アルマ・アタにはドゥンガン人中等専門学校が機能していたし,クルグズスタン国立フィルハーモニーにはドゥンガン・グループが存在していたことを記憶する人は少ない.党と政府のいくつかの決議はドゥンガン語に翻訳され,個別のパンフレットとして出版された.このことがすべて可能だったのは当時党権力の最高機関―全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会で少数民族の社会=文化的発展についての仕事を完全に監督する部局―少数民族部が機能していたおかげであると思う.

 しかしこの複雑な変化において多くの困難を伴って達成された最初の性向は30年代の悲劇的な事件によって中断されたのである.われわれの成果―新聞「十月の旗」は旧ソ連諸共和国に居住するすべてのドゥンガン人にとって事実上広義の唯一の社会=政治的中心である.このことにおける新聞の役割を化等評価するのは難しい.しかしここでも多くの問題が起きた.雑誌が存在した期間に(第1号の発行は1957年),ドゥンガン人住民の数はこの期間に約3倍に増えたにもかかわらず.編集部のスタッフは30年前と同じく少なく,発行回数も同じく週1回である.現在市場経済への移行との関連において,新しい「出版」法を考慮して,一般にドゥンガン人世論のこの唯一の新聞の運命についての問題が提起されている.もう1つの複雑さは文字の基礎にロシア語字母が置かれていることである.話し言葉の出来るドゥンガン人の誰もがテキストが読めるわけではない.

 矛盾した状況が生じた.すなわち文字はみんなが知っているが,テキストを読んで理解するのがやっかいなのである.つまりキリル字はドゥンガン語の特徴を考慮しておらず,ドゥンガン語の多くの音と声調はロシア字母の文字で表すことは不可能なのである.

 ソヴェト・ドゥンガン人の文化に対する深い否定的影響を及ぼしたのは民族の孤立,特に社会=経済的及び文化的孤立である.中華人民共和国においてのみ訳9百万―1億のドゥンガン人(回族)が数えられていることが知られる(いろいろの典拠による).ソヴェト権力の時期に,特に過去30年間にソヴェト・ドゥンガン人と国外の同族との間にはほとんど何の関係もなかった.われわれの社会のペレストロイカと民主化と関連してのみ人々が交際する可能性が出て来,基本的な人文的な関係が組織されている

 この点では,われわれの子供たちにドゥンガン語を教えるために(自分たちの教師がいつ現われるかは期待しない),もう隣りのカザクスタンで行ったように,中国から教師を連れて来ることが必要で可能であると考える.現在ではドゥンガン人が圧倒的多数を占める学校ではロシア語(基本的な教育用語),国家語,外国語,母語の4つの言語が学ばれている.子供たちがどれ1つとして充分に習得しないのは当然である.ところで外国語学習の成績は一般にもっとよくあってほしいのままである.そのような学校では外国語の代わりに母語―ドゥンガン語を補足的に導入する必要があると思う.まさにそのような学校にこそ中国から専門家を呼び寄せることが可能なのである.東方との国際関係を深めるためにはこれはかなり重要な意義を持つだろう.熱意あふれる方策を取らないと,われわれすべてを近いうちに待ち受けているのは自己の言語を完全に失ったオシュ州カラ・スー地区タシーロフ記念コルホーズのドゥンガン人住民に襲いかかったと同じ運命である.

 共和国の広範な社会層はフルンゼ市[現ビシュケク市]が中華人民共和国寧夏回族自治区の中心都市銀川市の姉妹都市だということをまず知らないだろう.過去にクルグズスタンにこの都市の代表団が来たことがある.多くの外国の代表団は共和国に来てドゥンガン人の保存する独特な文化に関心を持った.ドゥンガン人村はインド,イタリア党の賓客に会った.ところで歴史的故郷―中国の回族自治区から初めて来た代表団については人々は新聞のわずかばかりの知らせで知るばかりだった.代表団員がソヴェト・ドゥンガン人のことを知らず,彼らに関心を持たなかったとは考えにくい.

 いずれにせよドゥンガン人社会層のうち代表団と会った者はだれもいなかった.このことはペレストロイカの5年目なのに少なくとも非常に奇妙にみえる.この点では国際関係を統制する機関はもっと注意深くなければならない.

 わたくしはソヴェト・ドゥンガン人の文化的再生の問題の微々たる部分にだけ触れた.われわれの社会の民主化,わが国家の指導者によって宣言された新政治思考がわが国に住む全民族(多数民族であれ少数民族であれ)の文化の再生と発展のための基礎に実際になるだろうと信じたいのである.


クルグズスタン,カザクスタン,ウズベキスタンのドゥンガン・ディアスポラは

外国の学者の研究対象である


 ドゥンガン・ディアスポラはすでに革命前のロシア帝国で研究対象となった.しかし研究は表面的で体系的な性格を持っていなかった.ソヴェト時代になって初めて1920年代末と1930年代初にドゥンガン人住民の間に最初のインテリゲンチヤの要員が現われた.その時何よりもドゥンガン語研究のための特別なグループが中央で作られた.すでにこれらのグループにはドゥンガン人住民の代表たる最初の学者が入っていた.成功した共同作業の例としては著名なソヴェトの言語学者E・D・ポリヴァーノフPolivanov教授と当時まだ若かった言語学者ユスプ・ヤンシャンシンJusup Janshansinの研究がある.ソヴェト国家における当時の政治状況が提起されたプログラムに対応して仕事を完全に終了することを許さなかったとはいえ,ともかくE・D・ポリヴァーノフ教授とJu・ヤンシャンシンの論著はドゥンガン言語学の基礎を築き,今に至るまでその学問的意義を失っていない.

 ソ連におけるドゥンガン・ディアスポラの総合的,体系的研究の基礎は1954年に置かれ,この時出来たばかりのクルグズ共和国科学アカデミーには構造上の新しい下部組織たるドゥンガン文化部門が作られ,後にドゥンガン部局に改組された.50年の存続期間中にこの下部組織の学者たちはドゥンガン学の発展に重厚な寄与をなし,このことは共和国と国外の学界で承認された.

 ソヴェト時代はドゥンガン学のさまざまな問題は,当然の理由からではあるが,ソヴェトの学者たちによってのみ研究されていた.例外は多分オーストラリアのダイアーDyer女史と日本の橋本万太郎教授であるが,すでに1950年代にはドゥンガン学者(人民詩人Ja・シヴァザとM・スシャンロ教授)によって中国の学者たちとの創造的な結びつきは作られていた.しかし一連の客観的理由によりソヴェトと中国のドゥンガン学者たちの創造的な協同は約30年の中断の後に復活したのである.

 1989年クルグズスタンを訪問した中華人民共和国の最初の学者の1人が著名なクルグズ学者にしてドゥンガン学者,中央民族大学(北京市)の胡振華教授である.

 1989年は多分ソ連と中国のドゥンガン学者連携の復活の年と見ることが出来る.実際には,中華人民共和国のドゥンガン学者の積極的な旅行と真剣な研究はソ連崩壊後に,1990年代中頃近くにやっと始まった.疑いもなく最初の学者のうちの1人として中央アジア・ドゥンガン人文化の研究に従事したのは胡振華教授の博士課程の学生丁宏女史だった.彼女によってモノグラフ「中央アジア・ドゥンガン人の文化 «Культура дунган Центральной Азии / Kul'tura dungan Central'noj Azii»」が刊行されたが,これは専門家たちの意見ではドゥンガン学への重要かつ重厚な貢献となった.

 クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン学部局の学者たちと博士課程の学生丁宏の協力は実を結んだ.例えば,1999年M・イマーゾフ教授とともにモノグラフ「中国の回族 «Дунгане Китая / Dungane Kitaja»」が出たが,これは学者からも普通の読者からも肯定的な反応が寄せられた.これらの書き手によってドゥンガン文学の創始者Ja・シヴァザの詩集の中国語訳が中国で刊行された.そして現在丁宏教授はドゥンガン学の分野で積極的に研究に従事している.

 中央アジア及びカザクスタン・ドゥンガン人の創造的インテリゲンチヤのもとで寧夏回族自治区そして甘粛省と陝西省(独立国家共同体のドゥンガン人の大部分の氏族はここ出身)の回族センターとの実務上の,及び創造的な関係が作られた.まず第1に寧夏回族自治区社会科学院であるが,この指導者は何度もクルグズスタンとカザクスタンを訪れている.ついでながら,この学術センターの指導者は中国の大学者である.例えば,1995年以前にはアカデミー総裁は著名な歴史学者,中国イスラーム文化の専門家楊懐中Ян Хуaйджун / Yang Huizhongだった.彼はいくつかのモノグラフの著者で,それらは専門家たちの一致した意見では中国の歴史科学の発展に重厚な寄与をなした.特に楊懐中教授の基本的な労作「イスラームと中国文化 «Ислам и китайская культура / Islam i kitajskaja kul'tura»」を取り立てなければならない.このモノグラフは国家的全中国的意義の諸問題の著者による多年にわたる研究の成果である.ここでは中国におけるイスラームの発生の原因,イスラーム文化の生成と発展,その特殊性と中国文化全体の発達に対する影響が研究されている.

 1995年から現在まで楊懐中教授は寧夏回族自治区社会科学院院長顧問,「回族研究」誌編集長である.

 1995年寧夏回族自治区社会科学院院長にそれまで副院長だった余振貴Юй Чжэнгуй / Yu Zhengui教授が任命された.彼は中国では歴史学者,社会学者,中国史のさまざまな時期に退ける中国イスラームの発展に関する多くの論著の書き手である.

 余振貴教授はクルグズスタン史をよく知っている.彼は代表団を2度にわたって(1997年と1998年)率いてクルグズスタンとカザクスタンのドゥンガン人密集居住地域のほとんどすべてを訪れた.院長職に彼は5年間いた.

 2001年中華人民共和国国家協議会決定により寧夏回族自治区社会科学院院長余振貴教授は全中国イスラーム協会の最初の副議長に任命された.

 全中国イスラーム協会はすべての礼拝機関と教育機関を管轄し,イスラームの分野で専門家の養成と教育に責任を負う,込み入った,広い組織網を持った官庁である.中華人民共和国では現在9つのイスラーム大学と数万のモスクが機能している.例えば,新疆だけで2万3千のモスクがある.80年代からは全中国イスラーム協会のおかげで中華人民共和国の5万以上のムスリムがメッカへの巡礼を果たした.

 中華人民共和国では普通信徒に対して大きな権威を持つ聖職者がすべての宗教的協会を率いているという現実が出来ている.中華人民共和国全中国イスラーム協会会長はワン・ヤオピンВань Яобинь / Wang Yaobinで,協会指導部の責任は完全に第1副会長に委ねられている.

 中央アジアの新独立国には寧夏回族自治区社会科学院付属回族回教研究所長馬平Ма Пин / Ma Pingが1度ならず訪れているが,彼は中国におけるイスラーム文化の現在の状態についての多くのモノグラフと学問的著述の著者である.中国の印刷物には中央アジア・ドゥンガン人に関するレポルタージュのシリーズが公表されたが,これは読者からよい評を得ている.

 中央アジア及びカザクスタン・ドゥンガン人の歴史のさまざまな局面の研究に積極的に加わったのはこの研究所の協力者リウ・ヤン Лю Ян / Liu Yang 氏である.彼は寧夏回族(この先祖は中央アジア・ドゥンガン人と共通の根を持つ)についてのモノグラフの著者兼編集者である.著名なテュルク学者胡振華教授の弟子であるチャオ・フイ Чжао Хуэй / Zhao Hui女史の率いる寧夏国立大学付属回族研究所の学者たちとの接触が組織されている.

 寧夏回族自治区の言語学者はドゥンガン語の研究に積極的にたずさわっている.例えば,西北中国ムスリム文化・言語研究所長林涛教授,ウ・チエンペイ У Цзянбэй / Wu Qianbei教授,そして寧夏国立大学上級教員チャオ・シアオチア Чжао Сяоцзя / Zhao Xiaojiaを含む第2西北大学(銀川市)の言語学者グループは2002年にドゥンガン語のフィールド調査を行った.この目的で学者たちはクルグズスタンとカザクスタンのドゥンガン人のすべての大居住地区に行った.

 現在これらの学者によってモノグラフの出版の準備が行われているが,その基礎には彼らの現代ドゥンガン語フィールド調査の成果が置かれている.この作業を行う時には中国の学者に対する大きな組織上,方法論上の援助をクルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン学部局の同僚たち,特にクルグズ共和国民族科学アカデミー部局長,候補,M・X・イマーゾフ教授が行った.ついでながら,これらの学者の創造的な協力はすでに肯定的な結果を出している.すなわち林涛教授の努力で香港の出版所からM・イマーゾフ教授の詩と小説の選集がドゥンガン語と中国語で出された.選集が印刷上非の打ちどころのないものになったことを指摘しなければならない.

 蘭州大学中国語講座教授ワン・チエ Ван Дзе / Wang Jie氏が中央アジアに1度ならず来た.しかしドゥンガン語の特殊性と中国の西北方言を扱った中国の学術雑誌に載った彼のいくつかの論文は専門家たちの注意をひいた.現在ではワン氏は懸命にこのテーマの準備をしており,クルグズスタンのわれわれのところに創造的な調査旅行に来ることを夢見ている.

 中央アジアの現代ドゥンガン語の最初の学問的宣伝者の1人は西北民族大学(蘭州市)の侯歇民Хо Семин / Hou Xiemin教授で,もう10年以上も前90年代初にわれわれのところに調査旅行で来た.

 中央アジア・ドゥンガン人,特に陝西グループの研究に貢献したのは陝西省の学術的,創造的サークルの代表者たちである.これはまず何よりも国家公務員フォン・チンピン Фэн Цзинпин / Feng Jingping氏と王国傑Ван Гоцзе / Wang Guojie教授の論著である.王国傑教授は2000年にモノグラフ«История дунган Центральной Азии / Istorija dungan Central'noj Azii»「中央亜細亜回族史」を刊行した.

 ドゥンガン人フォークロアには積極的にYanzhou大学の王小盾Ван Сяодун / Wang Xiaodun教授(現清華大学教授(北京))が当たった.彼は中華人民共和国新疆のクルジャ州イリ地方のドゥンガン人を含めて中央アジアドゥンガン人のフォークロアの歴史に関する膨大な資料を集めた.疑いもなく期待される王教授のモノグラフはドゥンガン学に対する重厚な寄与となるであろう.

 中央アジアの諸共和国における困難な時期にもかかわらず,学者と文化活動家は自分の仕事に携わり続け,ドゥンガン文化の宣伝と自己の論著の刊行のためのいかなる可能性でも追求している.この意味では2002年も充分に生産的だった.例えば,中華人民共和国の常文昌Chang Wenchang 教授のモノグラフ “雅斯尔"十娃子与汉诗”«Ясыр Шиваза и китайская поэщия / Jasyr Shivaza i kitajskaja poézija»(ヤスル・シヴァザと漢詩),モスクヴァのドゥンガン学者A・カリーモフの論著 «Имена среднеазиатских дунган / Imena sredneaziatskix dungan» (словарь-справочник личных имен / clovar'-spravochnik lichnyx imen)(中央アジア・ドゥンガン人の名前(個人名便覧)),クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン部局の学者たちの論集 «Диалог ученых на великом шелковом пути / Dialog uchenyx na shelkovom puti»(シルク・ロードでの学者の対話),M・イマーゾフの詩集 «Избранное / Izbrannoe»(詩選)が出た.アメリカの団体 “Asian Alliance”から「ドゥンガン文化・教育」社会財団と共同で準備された歴史上初めての英文のカラー雑誌 “The Dungan of Central Asia: profile of the people” が出た.クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン部局の研究員とドゥンガン財団の共同の努力によってカザクスタン・ドゥンガン人協会とマレーシアの企業家たちの財政的支援を得て,ドゥンガン語が教えられているクルグズスタンとカザクスタンの学校用のいくつかの教科書と教授法の参考書が再編集され,再発行された.それは «Дунганский язык для 5 класса / Dunganskij jazyk dlja 5 klassa»(ドゥンガン語 5年生用)(著者:イマーゾフ),«Наша литература / Nasha literatura»(ドゥンガン文学)8-9年生用(著者:M・スシャンロ,M・フーロフXurov)及び M・フーロフによる教師用教授法参考書である.

 「イリムIlim」出版社から出された常文昌教授のモノグラフ“雅斯尔"十娃子与汉诗”«Ясыр Шиваза и китайская поэщия / Jasyr Shivaza i kitajskaja poézija»(ヤスル・シヴァザと漢詩)を特に挙げたい.常文昌教授は蘭州大学(中華人民共和国甘粛省)の文学研究者で,Ja・シヴァザの作品を翻訳によってではなく原文によって求めようとした.甘粛省の住民である常文昌教授は現代ドゥンガン語が基礎を置いている地方方言を知っているのである.

 われわれの有名な同族の人の作品の高い評価がわれわれにとって価値あるのは,常文昌教授が中国文学の並みの専門家かではなく,中国詩論の分野で定評のある学者の1人であり,“中国现代诗论要略”«Теория современной китайской поэщии»,“臧克家的文艺世界”«Творчество поэта Цзан Кэузя», “诗的多项角度研究”«Исследования в области современной китайской поэзии»,“中国现代诗歌理论批评史”«История критики современной китайской поэзии»のようなモノグラフを含む50もの学問的論著の書き手であることによってである.

 この学者の功績と中国詩論研究への貢献が認められたことにより彼は中国現代中国文学学会の幹部の1人に選ばれた.このほか彼は甘粛省現代中国文学学会の副会長である.常文昌教授は真の学者として多くの弟子を持っている.彼の指導のもとに多くの博士論文が誕生した.若い学者たちは彼の指導のもとに学問研究を続けている.

 常文昌教授は自己の学問的,教育的な仕事を他の国での外国人学生に対する中国語の教授と結びつけている.例えば,1994年-1995年にはカザク国立大学(KazGU)に,2001年-2002年にはクルグズ=ロシア・スラヴ大学(KRSU)に勤務した.

常文昌教授はJa・シヴァザの作品について次のように批評している:「クルグズ=ロシア・スラヴ大学に勤務している時,ドゥンガン文章語(ドゥンガン人の文字は音声的である)を充分学んだわたくしはヤスル・シヴァザの詩を知る幸いな可能性を得た.そしてわたくしは運がよかったと言わなければならない:すなわちわたくしは真の高い芸術の世界,芸術的な言葉の素晴らしい達人の詩の世界に接したのである.最初この詩人の詩を原文で読んだ時,わたくしはまるで新世界を見るかのような驚くべき感覚を経験した.このほかに,わたくしは幼児期と西北中国の地方方言の言語が思い出され,思いもかけずわたくしと詩人の心の親近を感じたのである.

わたくしはヤスル・シヴァザの作品を,可能な限り,研究し,中国詩の世界におけるその位置を規定したくなった.「中国詩の世界」と言う時,わたくしが考慮するのは,その発生の根源とは関係なく中国語による詩のことである.この詩の作り手は中国人自身でもあるし,中国語で話す外国人でもある.古代中国語あるいは現代中国語で書く中国,マレーシア,シンガポール,日本,アメリカ,中央アジアの詩人の作品はこの概念の枠内に収まる.

ドゥンガン語は西北中国の諸方言の1つである.すべての中国諸方言及びこの語族に属する諸言語のうちドゥンガン語だけは音声的文字を用いる.中国語西北方言のうちどれ1つとして,わたくしの知る限り,詩を書いたことがなかった.したがって,ヤスル・シヴァザのドゥンガン語の詩はある意味で独特なのである.

第1に,この詩が西北方言の1つで書かれたこと,第2に,これを欠く時に象形文字ではなく音声文字で書かれたのである.このことによって中国語の詩の世界におけるヤスル・シヴァザの位置が主として規定されるとわたくしには思われる.とはいえ,ヤスル・シヴァザの作品の独特であることがその芸術的な価値にあることを指摘しなければならない.

わたくしはこの言葉の正当なことを自分の論著で示そうとした.」

 自分の評価を“雅斯尔"十娃子与汉诗”«Ясыр Шиваза и китайская поэщия / Jasyr Shivaza i kitajskaja poézija»(ヤスル・シヴァザと漢詩)という本に与えたのがクルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン学部門主任,アカデミー候補会員,M・X・イマーゾフ教授である.

 「クルグズスタンの人民詩人ヤスル・シヴァザの詩は中国語を含む多くの言語に翻訳された.批判的な論文があり,それによって中国でドゥンガン人詩人の作品がどう感じられているかを判断することが出来る.しかしそれらすべての論著は,それらが疑いもなく価値あるものだとはいえ,翻訳された材料の基礎の上に書かれたものである.この本の著者常文昌教授も始めはヤスル・シヴァザの詩を翻訳で知った.しかし,これをもっとよく,深く理解するために,この学者はドゥンガン語の音声文字を習得した.この詩人の始めの詩を読んで,中国の研究者は(彼自身認めているように)「まるで新世界を見るかのよう」だった.中国詩の専門家である蘭州大学の常文昌教授は1年間クルグズ=ロシア・スラヴ大学に勤務し,クルグズ共和国民族科学アカデミー・ドゥンガン学部門の学者たちと学問的接触を持ちつつ,同時にヤスル・シヴァザの詩を研究した.

 彼のこの論著の価値は,第1に,それが原文の材料に基づいて書かれたこと,第2に,それが中国の学者だけでなく中国の読者によるドゥンガン詩人の作品の感覚を反映していること,そして最後に,第3に,この本の中でドゥンガン詩が中国詩と比較されていることにあり,わたくしの意見では,この第3の点は初めてのものである.

 中国の学者によるドゥンガン文学の創始者ヤスル・シヴァザの遺産たる作品の批判的解釈はドゥンガン詩の分野の専門家だけでなく中国詩の分野の専門家にとっても大きな関心事である.そのほかに,著者が研究した多くの作品に関して著者の記述した独創的な考えと時に思いもかけぬコメントはこの本を普通の読者にも魅力あるものとしている.

 したがって,ドゥンガン学,特にドゥンガン文学はドゥンガン書写文学の草分け,クルグズスタンの人民詩人ヤスル・シヴァザの作品のもう1つの学問研究によって豊かになったのである.

 中国の新疆ウイグル自治区の学者は中国の他の学者よりも中央アジア・ドゥンガン人の文化の研究で若干の優位を保っている.ここで考慮されているのはカザクスタンと中央アジアの旧諸共和国への地理的近さだけでなく,ドゥンガン人の多くの代表者が新疆ウイグル自治区に自分の親族を持っているということである.特にこのことは新疆の西端のイリ地区の住民のことである.このほかに,ドゥンガン人の多くの代表者が「往復ビジネスchelnochnyj biznes[2つの地域を往復するビジネス]に従事し,多角的に新疆ウイグル自治区に行く可能性を持ち,親戚だけでなく学者たちとも付き合っている.

 中央アジア・ドゥンガン人の文化の偉大な通にして研究者は楊峰 Ян Фэн / Yang Fengで,常に作家と学問の活動を兼ねている.楊峰は1991年ソ連にいて後に中央アジア・ドゥンガン人の歴史と文化」の積極的な研究者と宣伝者となる.彼のイニシアチヴで,また彼の直接の参加により «Паыон / Panvon»(«Надежда / Nadezhda»(希望))という本が出版されたが,ここには中央アジア及びカザクスタンの旧諸共和国のドゥンガン人作家の小説が含まれている.この高度に芸術的な作品の刊行は現代中国の文学生活における重要な出来事である.中国の批評家と文学研究者の認めるところでは,この著者は,実際に,作家の才能と学者の分析的能力とを自己の中に兼ね備えた偉大な言葉の芸術家である.批評家たちは間違っておらず,作家楊峰(ドゥンガン名ダヴルDavur)は2002年この作品により中国の文学部門の国家的賞を受賞した.

 多くの小説が中央アジアのドゥンガン人のテーマを扱ったが,これらを中国の読者に知らせているのは雑誌「回族文学Huizu Wenxue」(«Дунганская литература / Dunganskaja literatura»)である.この雑誌は昌吉回族自治州文化部の雑誌である.

 新疆芸術学院(ウルムチ市)の元准教授で現在その学長のチョウ・タリム Чжоу Тарим / Zhou Tarimは中央アジア・ドゥンガン人の音楽フォークロアの研究者である.ついでながら,このテーマはわれわれの学者によってはまったく研究されないままである.チョウはクルグズスタンとカザクスタンのドゥンガン人居住地域の大きな事実資料を集め,この種類の民間の作品を忘れていない多くの興味ある人々を探し出した.殊に,記憶により多くの古い歌をよみがえらせた大祖国戦争の参加者でアレクサンドロフカ村の住民ムハメド・ヴジンユMuxamked Vuzhin'juについて暖かく論評を加えている.

 研究成果についてチョウ・タリムはモノグラフを刊行したが,それは彼の博士論文の基礎となった.チョウ学長の言では,博士号を取得した後も,彼は中央アジア・ドゥンガン人の音楽フォークロアに対する関心を失わず,それどころか,このテーマに関する学問研究を継続するために将来自分の博士候補らをクルグズスタンに送りたいと思っている.

 ドゥンガン語は中国の新疆ウイグル自治区の学者の側からの積極的な研究の対象でもある.そのうち何よりもまず取り上げなければならないのは国立新疆大学(ウルムチ市)の准教授海峰 Хай Фэн / Hai Feng氏の «中亚东干语研究» «Исследования языка дунган Центральной Азии / Issledovanija jazyka dungan Central'noj Azii»(中央アジア・ドゥンガン語研究)である.そこではドゥンガン語の音声,文法構造,語彙構成,方言(甘粛方言と陝西方言)が研究されている.モノグラフのある章はドゥンガン語の文字の問題を扱っている.周知のように,ドゥンガン文字はその最初の発展段階においてアラビア文字とラテン字に基礎を置いた.1950年代からドゥンガン語の文字はロシア字の基礎の上に発展した.モノグラフでは著者によってそれらのどれもが調書と短所を持っていることが分析され,その際どの言語も,殊にドゥンガン語がそうであるように,少数民族の言語を保存し,発展させるためには文字の価値が大きいことが強調されている.

 ドゥンガン語の他の局面は新疆ウイグル自治区のフ・イ Ху И / Hu Yi,リ・イン Ли Инь / Li Yin,チェン・ティンリン Чэнь Динлин / Chen Dingling等のような言語学者の論著で研究されている.

 中央アジアの新しい独立国家に居住するドゥンガン人のテーマは中か人民共和国の新疆ウイグル自治区の活動家の創作に一定の位置を占めている.例えば,作曲家マ・チェション Ма Чжэщён / Ma Chzhésh'ёnはドゥンガン人を扱ったシンフォニーをいくつか書き,有名な作曲家兼歌手スエルドゥン Суэрдун / Suérdunは西北中国の回族住民の間に非常に行き渡ったいくつかの歌を旧ソ連のドゥンガン人代表者に捧げた.

 すでに1997年8月に新疆テレビ及びラジオ放送の撮影隊が世界のいろいろな国に居住するドゥンガン人の歴史と文化を扱ったドキュメンタリー・フィルムのためにクルグズスタンとカザクスタンを訪れた.このプロジェクトを導いたのは中華人民共和国新疆テレビ及びラジオ放送付属のオーディオ,ヴィデオカセット,コンパクト・ディスク(VCD)の製造会社の社長カ・ホン Га Хэн / Ga Heng氏である.

 彼がそのフィルムについて語った言葉である:「世界のいろいろな国に居住するドゥンガン人(回族)についての大きなフィルムを撮るという考えは1年かけて醸成された.しかし多くの客観的な理由によりその実現は常に延期された.今までいろいろな国,特にシルク・ロードの空間に居住するドゥンガン人の歴史,文化,儀礼,伝統を叙述する長尺のドキュメンタリー作品は存在しなかったのである.準備活動は何年にもわたってわれわれが行った.われわれのグループには,監督,カメラマン,技術者のほかには,学者―歴史学者,民族学者,言語学者,それに聖職者,作家,言うならば,ドゥンガン問題の専門家も入っていた.必要に応じて他の顧問たちもひきいれたのである.

 1996年からクルグズスタン,カザクスタン,回族の住む中国の多くの地域で撮るという大量の仕事をした.何百メートルというフィルムが戦闘とともに白彦虎が西に向かったというところに費やされた」.この機会に,ヴィデオ資料の撮影時にわれわれに力の限りの援助を下さったクルグズスタンとカザクスタンのドゥンガン人協会と中央アジアの多くの普通の住民に大きな謝意を表する.

 当然そのような大規模の仕事には多くの財源が要求される.われわれを援助してくれたのは中国の多くの地域のスポンサー,企業家,ビジネスマン,基本的に回族だった.現在モンタージュの作業が進行中である.来年はフィルムの作業が完成すると思う.コピーのある種の部分は若干の出費をカヴァーするためにわれわれに売られるだろう.」

 フィルムの作業が現在まで完全には終わっておらず,中央アジアのドゥンガン人についてのフィルムを含めてある部分はできていることを指摘しておかなければならない.

 しかし,ドゥンガン・ディアスポラに学問的関心をよせるのは中国の学者と専門家だけではない.他の国々の学者がますます中央アジア・ドゥンガン人の物質文化と精神文化のさまざまな側面に関心を持っている.最近数年間にアメリカ,オーストラリア,マレーシア,ドイツ,フランス,イスラエル等々から同僚がやって来た.特に東京外国語大学の菅野裕臣教授を頭とする日本の言語学者のグループが何度もクルグズスタン,カザクスタン,ウズベキスタンを訪れた.

 すでに1970年代にドゥンガン語の特殊性を研究する目的でわが国に橋本万太郎教授が来た.現在リレーを菅野裕臣教授を頭とする学者のグループが引き継いでいる.

 日本の専門家の話では,ドゥンガン語は研究のあまりなされない分野である.特に日本人の関心を持つのは現代ドゥンガン語の語彙である.このほかに,日本の学者たちの関心は中央アジア・ドゥンガン人の言語だけではなく歴史,物質文化,精神文化のさまざまな側面である.さらにこれらすべては政府の機構の支持を得ており,したがってしかるべく財政的にあと付けられている.日本にもドゥンガン学センターの1つが形成されるという語る一定の根拠がある.[乏しい科研費によるものがこのように誇大に理解されたものであり,大きな期待にこたえられないのは忸怩たる思いである―菅野裕臣]

 イスラエルの企業家アブディサロム・ゲルションAbdisalom Gershonの立場は興味深い.彼の母親は南部中国の出身であり,父親はイスラエル市民である.彼は自由時間のすべてをドゥンガンの言語と文学の研究に費やしている.少ない外国の研究者のうち彼だけがドゥンガン学者のすべての論著,そしてわれわれの古典作家たち―ヤスル・シヴァザ,アルリ・アルブドゥ,ヤクバ・ハヴァーゾヴァJakuba Xavazova等の作品を原典で研究した.彼によって西の作家の多くの小説が英語からドゥンガン語に訳された.A・ゲルションは(大部分の中国の学者とは異なり)ドゥンガン人語は,中国語から離れたとはいえ,独自の言語であると見なしている.彼は中国語とテュルク諸語との結合として形成されたサラール語との比較を行っている.

 このように,現在中央アジアのドゥンガン・ディアスポラ,その歴史,言語,そして精神文化と物質文化の様々な側面もまた外国の学者の学問研究の当面のテーマなのである.