В токийском университете иностранных языков прошло «Международное научное совещание по проблемам центральноазиатских дунган», в котором приняли участие и ученые из стран Центральной Азии, в том числе Узбекистана

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ウズベキスタン・ドゥンガン人の民族学的概況

マネ・ダヴーロヴィチ・サヴーロフ

(ウズベキスタン・ドゥンガン人協会議長)


 中央アジアの大国ウズベキスタンは2千5百万以上の最多数の人口を持つ.ここには130以上の民族が住む.その中にドゥンガン人は居住している.

 周知のごとく,ドゥンガン人は中国西北諸省から1862年 – 1878年のドゥンガン人(回民)の―事実は反清の―蜂起の敗北の後中央アジア及びカザクスタンの領域に移住したものである.最初の段階では甘粛省と陝西省から3グループの避難民がいた.第1派の避難民(甘粛省から)は1877年11月に今のプルジェヴァリスク市の近くに移住し,第2派の避難民(陝西省から)は1877年12月に一部はトクマク市に,一部はインパン(営盤)村に(現在のマサンチ村)に移住し,第3派の避難民(甘粛省から)は1877年12月にオシュ市の近くに移住した.第2の段階では中国からはイリ地方(新疆)からドゥンガン人が移住したが,彼らはほぼ現在のビシュケク市の近くに居住している.次の段階では地域内での数の異なる住民の移動がかなりしばしば起きた.例えば,オシュのドゥンガン人からは1883年に一部が分かれてタラス市g. Tarasの近くに住みついた.もう1つのグループはある家族あるいはグループの移住後間もなくアンディジャン市g. Andizhanに,後にフェルガナ渓谷の他の諸都市に移住した.彼らのうちある者はタシュケントにまで到達した.当時フェルガナ渓谷のアンディジャン市と他の諸都市には,オシュ市に住む者を含めて全部で343名を数えた.1

1 Костенко(コステンコ) А. Туркестанский край. Очерк

военно-статист. Обозрения Туркестанского военного округа(トゥルケスタン地方.軍事統計概況.トゥルケスタン軍事官区概況). Т.1. СПб(サンクト・ペテルブルク), 1880, с 332.

 そのほか,19世紀末 - 20世紀初にタシュケント市にはトクマク,ビシュケク(ピシュペク)(クルグズスタン),アルマ・アタ(ヴェールヌイ),タラズTaraz(アウリエ・アタAulie-Ata)(カザクスタン)その他からドゥンガン人商人が住みついた.1917年に至るまでセミレーチイェ(七河地方)のいろいろの地域から少数のドゥンガン人のタシュケントへの移住が続き,革命前の時期にここには数十人のドゥンガン人を数えた.2 ところで1926年には,Z・P・アミーチン=シャピロAmitin-ShapiroとI・M・ユアーボフJuabovによれば,3 ドゥンガン人はすでに142人(うち男89人,女43人)だった.1930年代には基本的に大部分のドゥンガン人は陝西出身者の子孫と数家族は甘粛ドゥンガン人の子孫であるが,タシュケント州に移住し,ここでは1935年-1936年に民族コルホーズ「ルンミン・グンホLunmin Gunxo」4と「スタハーノフ的米栽培者Staxanovskij risorob」5が出来た.

2 Заорская и Александер(ザオルスキー及びアレクサンデル).

Промышленные заведения Туркестанского края. (トゥルケスタン

地方の工業施設)Птр(ペテルブルク). 1915, с 29; Никольская Г. Б.

(G・B・ニコリスキー)Выходцы из Синьцзяна в Туркестане в конце 」

XIX - начале XX вв. (19世紀末-20世紀初のトゥルケスタンにおける

新疆出身者)Канд. Дис.(博士候補論文) -Ташкент(タシュケント),

1969, с 135.

3 Амитин-Шапиро 3. П., Юабов И. М. (Z・P・アミーチン=シャピロ,

I・M・ユアーボフ)Mеньшинства Узбекистана (очерки

социалистического строительства) (ウズベキスタンの少数者(社会

主義建設概況))– Ташкент(タシュケント), Госиздат УзССР(ウズ

ベク・ソヴェト社会主義共和国国立出版社), 1935 с 116.

4 ЦАГ Уз ССР, ср. Р-90, т. 8. д. 1999, л. 20

5 同掲書. Д. 1996, л. 24

 1950年末-1960年初にはウズベキスタンには中華人民共和国からのもう1つの大きな波がやって来た.民間では中国第8号人民解放軍の名称から「バ・ホBa xo」(八号)と名付けた.それに続く10-15年間にそのうちの一部はクルグズスタンとカザクスタンに移住した.現在その子孫はタシュケント市とタシュケント州のドゥンガン人の約10%をなしている.そのうち数十人はサラール人の起源を持つ.現在では彼らは実際には完全にドゥンガン人に溶け込み,自身をドゥンガン人と同定している.サラール人及びドゥンシアン人とバオアン人の同化は口伝えのレヴェルでは中国でも起きていることを指摘しなければならない.

 1979年から1989年にかけてウズベキスタンのドゥンガン人は1106人から1353人に22%増大した.自然増加のほかに独立した頃数年にはカザクスタン,クルグズスタン,中華人民共和国から数十人が移住した.現在ウズベキスタンにおける査定資料によれば3千人以上のドゥンガン人が居住している.

 ウズベキスタンのドゥンガン人は大部分中国語の陝西方言で(80%以下),ごく一部が甘粛方言で(20%)話している.両方の方言とも相互に理解し得る.

 ドゥンガン人はスンニー派のイスラームを信奉し,大部分ハナフィー派xanifityに属する.陝西ドゥンガン人は2つの大きな宗教上のグループ-「ヤフシjaxshi」と「ヤマンjaman」に分かれるが,これは一連の宗教儀式,大部分は葬送・追善のサイクルと儀式の若干の外的な側面に関して分かれたものである.ウズベキスタンではそれはここの最多派である「ヤマン」グループ(約90%)の習慣によって行われる.「ヤフシ」グループに固有な儀式は基本的に祈祷あるいは食事を終える時の儀式である「アミン」を2度行うことと葬式の日に牛を犠牲にすることに現れるが,最後のものは事実上すでに行われない.

ドゥンガン人の中にはジャヒリーヤ派sekta dzhaxirijaの代表がおり,大部分甘粛ドゥンガン人出身であり,50-60年代の移住者であるが,このことを記憶するのはたいそうな老人だけである.

 全体としてウズベキスタンのドゥンガン人に特徴的なことは宗教上の団結であり,実際にことなる宗派への帰属を土台とした争いや紛争は存在しない.そして極めて象徴的なことだが,若者は自分がどの宗派に属するかさえ基本的に知らないのである.

 このことすべては「ヤフシ」グループが少数であることと一定程度関連するが,ムスリム聖職者を養成し,ドゥンガン人が他の諸民族の代表者とともに一般のモスクを訪れることを保証するウズベキスタンにおける国家の役割とも関連している.

ドゥンガン人の行事には,イスラームと並んで,ムスリム以前の信仰の痕跡やシナに広がっている道教,儒教,仏教の要素も保たれている.このことすべてはドゥンガン人の精神生活だけでなく家族の儀礼と家族・親族関係のすべての側面に大きな影響を及ぼしている.

 この民族の起源に関しては学者の間でも今まで統一見解がない.ドゥンガン人自身の間にはアラブ起源の伝説が存在する.唐代(618 - 907)のある皇帝が,緑の服をまとった若者が彼を怪物から救うという夢を見た.賢者たちは皇帝に,怪物とは敵たる遊牧民であり,緑(イスラームのシンボル)をまとった若者とは唐帝国を救う西方に現われた新しい宗教の色であると説明した.賢者たちの助言によって,皇帝はアラビアに預言者ムハンメドに対する招待状とともに大使を送った.ムハンメドは皇帝に3千のアラビアの戦士を援助として送った.遊牧民との戦いでアラビア人は勝利を収めた.彼らを何とか引き止めるために,皇帝は彼らにシナの女を妻として与えた.彼らの結婚から生まれた子どもたちがドゥンガン人である.

 ドゥンガン研究者たちは,ドゥンガン人=回族の形成における基本的な層は,西北中国の地域諸民族に,シナ語とムスリム信仰を基礎に,さまざまなテュルク,イラン,アラブ的構成要素が加わったものであることを確認している.ムスリム信仰はドゥンガン民族性の形成に決定的役割を果たした.

 ドゥンガン人の起源における中央アジア的構成素の重要な層については多数の文書だけでなく次のような事実も証拠立てている.中国寧夏回族自治区の行政上の中心銀川市には中国の著名なドゥンガン人(回族)の10の記念碑が立っている.そのうち4人はブハラとサマルカンド出身者である.しかもそのうち3人は中央アジアのガウンとターバンで描かれている.ブハラ出身者の子孫である4人目は15世紀の最初の4半世紀,永楽帝の統治の時期にインド,アラビア,東アフリカ,東南アフリカの海岸を7つの海の航海を行った回民である有名な中国の提督である.

 2008年3月13日ドゥンガン人中央アジア移住130周年記念のタシュケントでの大会で歴史学者アハト・ホジャーイェフAxat Xodzhaevはこのことに関してその報告でドゥンガン人は移住んしたのではなくてここに帰還したのであることを指摘した.ともあれ人類学的パラメーター,いくつかの他の資料は彼らの中央アジア起源について語っている.それどころか,中国西北部から来た回民,及び独立国家共同体の現代のドゥンガン人の中には言語と文化において中央アジア的構成素がはるかにアラブ的構成素を凌駕していると確信をもって言える.彼らが中国のこの部分にイスラームを普及させたことを考慮に入れるなら,中央アジア出身者たちが少なくとも中国西北と西南におけるドゥンガン民族(回族)の形成に主たる役割を果たしたということが出来る.

 ムスリムとしてのドゥンガン人は金曜日の礼拝(dvuma)を含めてナマーズを行う.彼らは住民が分散しているために普通近くのモスクに通い,ウズベク人,タタル人その他とともに期島する.古くからドゥンガン人の信仰心は非常に高かったが,ソヴェト時代は幾分低下した.最近は宗教生活の活発化と住民の信仰心の強化が顕著である.このことは独立ウズベキスタンにおける宗教儀式を行う自由が憲法にゆるぎないものとされることによって説明される.彼らはハジを行う可能性をも得た.独立後タシュケントとタシュケント州からは18人のドゥンガン人がメッカを訪れた.彼らのすべてがこの前にもっとも有名な神学者アル・ブハーリー al’ Buxari のサマルカンド近くにある廟への聖地巡礼を必ず行うことを指摘しておこう.ムスリムの間にはイスラームの最も偉大な支柱の1人であるコーランに次ぐ第2の『ブハーリーの真正集』の著者アッサヒフ・アル・ブハーリーas-Saxix al-Buxariの埋葬地を訪れることは義務的であり,ハジを行う前ならなおさらそうだという統一的な意見があるからである.


都市の住民

 

 総数3千人というドゥンガン人のうち大部分(60%以上)は都市に住んでいる:基本的にはタシュケント,アンディジャン,サマルカンド,フェルガナ渓谷のある都市(フェルガナFergana,マルギランMargilan),タシュケント州のある都市(トイ・テパToj-Tepa,ヤンギ・ユルJanguijul')である.タシュケント市ではドゥンガン人は150家族を数え,次のように分散している:ベクテミル地区Bektemirskij rajonに60家族,ハムザ地区Xamzinskij rajonに約20家族,ヤッカサライ地区Jakkasarajskij rajonに約20家族,ユヌサバード地区Junusa-

badskij rajon,シャイハンタフル地区Shajxantaxurskij rajonにそれぞれ20家族以上,その他の地区に数家族ずつ.アンディジャンには80家族以上のドゥンガン人を数え,上述の他の諸都市には数家族ずつ数えられる.

 タシュケントではコイルク市場Kujljukskij rynokの半径2-3キロメートルのベクテミル地区,ハムザ地区,ヤッカサライ地区の他民族ブロックに集中しているが,ベクテミル地区のハナバード・マハッラmaxallja Xanabadでは彼らはウズベク人の間に「分散している」.他の地区では彼らはまた大部分ウズベク人マハッラの間に分散し(旧市街部),小数派新しい他民族ブロック,他民族棟に居住している.ドゥンガン人の似たような分散はトイ・テパ市にも見られる.

 アンディジャンでは中央公園の近くのマハッラと都市の他の地区にウズベク人住民の間に住んでいる.ウズベク人の間にはフェルガナ渓谷の他の諸都市のドゥンガン人も分散している.

 ドゥンガン人都市住民の総数は2000人以上をなし,そのうちタシュケント市1200人以上,アンディジャン300人,残りは上述の他の都市居住区である.

 圧倒的多数の都市のドゥンガン人は1階建てのブロックとマハッラの固有の家に住むことを好む.そして彼らのうちの少し(10-15%)が多層住宅に住む.

 タシュケントのドゥンガン人にとって30-40年間に特徴的なことは,すべての年齢グループにおいて少し男性が多いという性の独特な相関関係である.われわれの算定ではこの相関関係は52%対48%である.例外をなすのは老年層であり,ここでは女性の方が高い.

 都市のドゥンガン人は国民経済の最も多様な分野に従事している.それらの中には労働者,教師,技師,法律家,学者,医師,商人,さまざまな階層の指導者がおり,このことは全体として都市住民に特徴的なことである.同時にドゥンガン人の特殊性は都市の住民であると同時に自活する住民の彼らの多く(15%以下)が農業に従事し,米と野菜をタシュケント州及び他の諸州に飢えていることである.特に彼らはコイルクKujljuk地区に多いが,タシュケントの諸地区にもいる.伝統的な職業のうち柄にもなく弱い位置を占めるのが公共外食業obshchestvennoe pitanieにおける仕事である.そこに従事するのは全部でせいぜい50-70人である.さらに彼らの一部はいわゆる在宅勤務者nadomnicyに属する.すなわち彼らは家でラグマン(麵)(生地あるいはソース付の生地)を注文に応じて作ったり,引き延ばされた生地を市場で売るのである.われわれの見るところでは,公共外食業はドゥンガン人の技術を考慮した場合には彼らの活動を広げるための大きな分野である.

 伝統的職業のうちドゥンガン人が自身の所有する秘密としてなおも従事するのが澱粉質の麵の製造である.過去にさまざまな豆から麵を作ったが,今ではジャガイモの澱粉だけである.1990年代にはこの製造業に従事したのはタシュケント,特にコイルク地区の約30家族である.彼らの大部分はドゥンガン人住民の富裕層に属した.最近数年間安い輸入品のせいでドゥンガン人の澱粉産業は重大な危機を蒙っている.世代を継いで澱粉の麵の製造に従事した多くの家族は農業に移行することを今では余儀なくされた.この変化は大変重い.都市のドゥンガン人の一定の部分(タシュケント市ドゥンガン人の3-5%以下)は商業に従事下。すなわち店では野菜を売り,市場,特にコイルク市場ではヒマワリの種その他を売るのである.若干の者は士分の自動車で運送業をしている.

 都市のドゥンガン人の皆教育があり,大部分は中等教育を終え,多くは中等専門教育と高等教育を受けている.全体としてここでは教育水準は高いが,高等教育を受けた人々の分布は不均等である.もしも高等教育を受けた人々が都市のさまざまな部分でほとんど2家族ごとにいるのならば(これはウズベキスタンにおける平均的数字に対応する),コイルク地区ではドゥンガン人のほとんど100家族に全部で約10人の教育を受けた人が」いることになる.このことからも資格ある職業のない多くの人々が,農業に従事する人々を含めて,存在するのである.

 すでに最近のソヴェト時代に非常に少しの青年しか大学で学ぼうとしていないという不安が起こった.しかし過去数十年の間にドゥンガン人青年の高等教育獲得の志望が著しい.このことはすべて青年が現代の知識と職業に親しむことを助けている.特にこのことは過去数十年に顕著である.

 高等教育を受けた人々のうち多くはさまざまな理由から本来の職業で働いておらず,ある種の女性のようにある者は自分の夫の意思により全く働いていない(このことは一部のドゥンガン人の一定の思想の水準を語っている)ことをも指摘しておこう.

 このことは何人かの両親が娘を大学に進ませたがらないことの理由となっている.物質的出費のほかに,このことは,ドゥンガン人にあっては大学に進んだ娘たちがしばしば嫁として人気がないので,大学卒業後同族の男と結婚できないという結果をもたらすのである.そのほかに,娘が学業中に非ドゥンガン人と結婚するという可能性があるのである.

 残念ながらこのことすべては隣国カザクスタンとクルグズスタンに住むドゥンガン人にも当てはまるのである.

 ここで見るように,ドゥンガン人の教育水準を上げる計画においてはわがドゥンガン人文化センターを含めてするべきことが非常に多い.この仕事の基本的な命題は「高等教育を通じて未来へ」というものにならなければならない.

 公共外食業における都市のドゥンガン人の伝統的職業は当然ドゥンガン人によるこの分野での企業の創造を引き起こした.タシュケント市にはドゥンガン人の働く10以上の食堂とカフェーがある.それらすべては住民の間に大変有名になっている.特に有名なのはラグマン(麵),マンパル(刀削麵,麵片児),野菜と肉の炒めものその他の料理である.ドゥンガン食堂の数は増大する大きな展望がある.それらが今だいたいコイルク地区に集中しているならば,将来それらは疑いもなくタシュケントの他の諸地区にも作られるであろう.それらのうちいくつかでは過去数十年に中国から移住したドゥンガン人がコックとして働いている.

 皮革の調達といくつかの原料の商品に従事する3つのドゥンガン人仲買い商会における公共外食業のほかにはベクテミル地区Bektemirskij rajonにあるドゥンガン人に属するレンガ工場と劇場が機能している.

 ウズベキスタン独立の初期にドゥンガン人には自己の歴史的祖国―中国の同族[回族]との交流の現実の可能性が生じた.過去十何年間に何十人ものドゥンガン人が中華人民共和国における親戚を訪問し,今度は中国から多数の客を受け入れた.したがって,他の国家に住む親戚,同族[回族]との実際に断たれていた糸は今や回復した.このような交流の展望は非常に大きい.


農村の住民


 ウズベキスタン農村におけるドゥンガン人の分散は都市におけるよりも著しく後に起こり,国家の移民政策と結びついているが,この時殊にタシュケント州における人口の少ない地域(河川沿いの広大な,湿った荒れ地)に計画的に入植が行われた.ドゥンガン人の伝統的職業―米作を考慮して彼らはこれらの地域に移住させられた.未来はここに誤りがなかったことを示した.

 ドゥンガン人農村住民総数約800人はタシュケント州に集中している.最も多くオルタチルチク地区Urtachirchikskij rajon の「ドゥンガン・マハッラ」«Dungan-maxallja» 村には700人以上(130家族)が住んでいる.他の居住地域では彼らはオルタチルチク地区のキム・ビョンファ記念農場shirkatnoe xozjajstvo Kim Pen Xva,及びユコルチルチク地区Yukorichirchikskij rajonのユク・オタ村selo Yik-otaとアックルガン地区Akkurganskij rajonに住んでいる.

 ドゥンガン・マハッラ村はタシュケント市から17キロメートルの距離,タシュケント―ベカバードBekabad街道から3キロメートルのところに,カラスー村役場Karasujskij sel'skij sxodの領域にある.

 ドゥンガン・マハッラについて語る前に,タシュケント州への最初のドゥンガン人の入植地が1935年に組織された「ルンミン・グンホ」コルホーズ «Lunmin Gunxo» だったことを述べる必要がある.ユコルチルチク地区には1年後に「ソヴェト国家」 «Strana Sovetov» と改称されたコルホーズがあった.コルホーズは建設された時には52農場6からなっていた.全部で178人おり,そのうち52人の男性と48人の女性,未成年者と1歳未満の子供6人,8歳未満72人がいた7.彼らの大部分はカザクスタンとクルグズスタンからの移住者だった.

6 ЦГА Уз ССР, ф. Р-90, т. 8, д. 1999, л. 20

7 Там же同, л. 21

 当時「ルンミン・グンホ」コルホーズを含めてすべての移住者コルホーズは食肉による納税を課せられた.移住者は時折,食肉供給を遂行するに際し,移住に際し彼らに国家の貸出として支給された家畜を返却することを余儀なくされ,このことによって農場をさらに弱化させざるを得なかった.このことによってコルホーズからの離脱の場合が説明され,この結果として農場の数は1936年2月には14にまで減少した8.権力の干渉と地方権力によって反濫用闘争で採られた手段と移住者コルホーズの課税の整備の結果として「ルンミン・グンホ」コルホーズにおける農場数は1936年4月頃には4つにまで増えた9.それにもかかわらずドゥンガン人は結局はさまざまな理由によりこのコルホーズを捨てた.彼らの一部はカザクスタンとクルグズスタンに帰り,一部はタシュケント市に行った.

8 Там же, д. 3159, л. 3

9 Там же, д. 1999, л. 89

 ドゥンガン人の第2の大きなグループは1936年初にタシュケント州にやって来て,オルタチルチク地区(現在のドゥンガン・マハッラ)に居住し,ここで「スタハーノフ米栽培者」 «Staxanovskij risorob» コルホーズを組織した.農場数42,うち2つはウイグル人農場.うちカラクヌズKarakunuz出身者15家族,ショルトベShortjube出身者2家族(カザクスタン),トクマクTokmak出身者4家族,アレクサンドロフカAleksandrovka出身者6家族,フルンゼ出身者1家族,トロイツコイェTroickoe出身者1家族(クルグズスタン),タシュケント出身者8家族,その他はクルグズスタンのさまざまな地域からの5家族である10.総計149人,うち男性78,女性71人.

10 Там же, д. 2996, л. 24

 ドゥンガン人コルホーズの最初の議長は「ルンミン・グンホ」のマディンツェイ・アルリMadincej Arliと「スタハーノフ米栽培者」コルホーズのマシャンピン・フルMashanpin Xurだった.組織者の中にはまたフル・ハハルXur Xaxar,マシャンロ・ユシルMashanlo Jushir,D・シャムロフShamurov その他もいた.この2つのコルホーズのドゥンガン人は河岸に葦の生えた新しい土地の開墾に大きな仕事をなした。国家は新しい土地の開墾に移住者の関心を向けるために新たに開墾された土地に3年間課税せず,それは肯定的な結果をもたらした.

 「スタハーノフ米栽培者」コルホーズには455.65ヘクタールの土地が確保された.その大部分は河岸に葦で覆われたものだった.それが開墾され,米が植えられた.1960年代末にはすでにコルホーズの領域には葦で覆われた土地は残っていなかった.

 1937年にはここではロシア語を教える学校が建てられ,ドゥンガン語の授業が行われ,それは1940年代初に中止された.「スタハーノフ米栽培者」コルホーズではこの頃文盲一掃のサークルが組織された.これらのサークルの活動の結果として中年及び若年のドゥンガン人の間の文盲は一掃された.

 「スタハーノフ米栽培者」,タシュケント市,アンディジャン市その他を含むウズベキスタンのドゥンガン人は大祖国戦争の時期に祖国の防衛に積極的に参加した.その参加者の中にはサンタロフ・ムハメSantarov Muxarme,マブセーテフ・ドゥンラMabuseev Dunla,マブセーイェフ・ディディザMabuseev Didiza,ムサーロフ・フセMusaroh Xuse,マチン・ハルMachin Xar,ミヴァチン・マナルMivachin Manar,グヴァズ・シメGuvaz Shchimé,ミヴァチン・マナルMivachin Manar,フォンシロフ・ユブルFonshirov Jubur等がいる.将校の受勲者サンタロフ・ムハメはスモレンスクSmolensk郊外で敵の飛行機を落とし,

グヴァズ・シメはキーイェフKiev郊外の戦闘で勇敢に死んだ.

 1941年銃後で勤労能力のある男たちは1年間タシュケント―アルマルクAlmalyk街道の建設に参加した.この後ドゥンガン人コルホーズ員はチルチク川reka Chirchikと北タシュケント運河Severnyj Tashkentskij kanalの建設に参加したが,それは3年続いた.北タシュケント運河を稼働させ,第6集水溝を敷設するとともに「スタハーノフ米栽培者」コルホーズとタシュケントの隣接する農場への給水が安定した.

 1950年代に「スタハーノフ米栽培者」は農場を拡大する過程でカルル・マルクス記念コルホーズに入り,それは後に「カラスー」 «Karasu» と改称された.現在これはカラスー村役場の中の「ドゥンガン・マハッラ」村である.

 この村の住民の民族構成についての問題に移る前に指摘すべきことは,「スタハーノフ米栽培者」コルホーズが形成された1936年末頃極東から朝鮮人が,1944年末 - 1945年初にグルジアからトルコ・メスヘティア人が移住させられたことである.その後,特に1950年代末に朝鮮人は徐々に諸都市に移住し始め,1988年には村からトルコ・メスヘティア人が立ち去った.

 したがって現在ここにはいろいろな民族の167家族が住んでいる.そのうちドゥンガン人は130家族(700人),ウズベク人は159人,カザク人は56人,朝鮮人は34人,ロシア人は22人,ともに住み,仲良く暮らしている.他民族の隣人関係は緊密である.客に行ったり招かれたり,ともに祭りを行う.ウズベク人,カザク人,朝鮮人,ロシア人等の代表抜きの結婚式は1つとてない.葬式と命日も同じである.すなわち文字通り喜びも悲しみも分かち合うのである.キム・ビョンファ記念コルホーズとユク・オタ村でもドゥンガン人はこれらの民族の間で暮らしているが,彼らの数が違うだけである.

 「ドゥンガン・マハッラ」の住民の性については大変興味深い.

 過去40年余りにわたってほとんど毎年男性の方が多く生まれている.この関連では過去20年余りの間に(カザクスタン,クルグズスタン,タシュケント市からの)52人以上の女性が地域の男性と結婚した.同じ時期に村から結婚して出て行った女性は17人だけである.これで分かるように,いわゆるプラスの残高は45人である.小さな村にしては差はかなり大きい.この傾向が今日までも続いているのは興味あることである.男児は依然として多く生まれている.過去10-15年に年平均出生率は13人から25人である.

 ソ連の存在した過去数十年間農村ドゥンガン人の年齢構造は残念以上の関心を呼び起こさなかった.例えば,1989年に450人のドゥンガン人でわずか32人が50歳以上である,すなわちやっとわずか7パーセント以上であることになり,これは共和国平均よりはるかに低かった.このことすべては特に中年層における高い死亡率が引き起こしたものである.現在ではこの年齢層は11派^線と以上をなしている.

 ドゥンガン人が早く死ぬ主たる理由は,彼らのかなりの部分が,医者に行く時,極端な場合,重病の状態でさえ入院することを望まず,なんとかなるさを決め込むという自分の健康に対する明らかに軽視する態度である.運命づけられていることが起こるだけなのだということだ.周知の如く,コーランには健康を守ることが指示されており,健康に対する軽視する態度は神の希望に反するものであるにもかかわらず,残念ながら,思考の様式はしばしば生活における現実の要求からはずれるのである.勿論生命の長さに影響を与えるものとして,1980年に,特に遅れて遂に除草剤が現われる時までは,水田での日常的な,しばしば継続的な重労働がある.ドゥンガン人の健康に対する否定的影響を及ぼすものに,多くの家庭内の儀礼を含めた彼らの生活様式のいくつかのモメントがあり,それらの儀礼は多くの労力と資産を,遂には健康をも奪い取るのである.

 多くの健康と生命を奪うものとして,喧嘩をしている人間とは挨拶もせず,会話もしないというドゥンガン人に昔からある習慣がある.彼らは「わたくしがつかみ合いの喧嘩で勝てなければ,敵とは話しもせずに勝つだろう」という中国の俚諺に従うのである.

 このことすべては,イスラームの禁止するところであるにもかかわらず,今日まで保たれている.それどころか,イスラームはそのような人々に特にダ・エルディDa Érdiとショ・エルディShchë Érdi,すなわちラマダーン・ヒトRamadan-Xit(断食)とクルバーン・ハイトKurban-Xait(犠牲祭)の祭日に義務的に和解することを勧めているのである.残念ながらこのシャリーア(イスラーム法典)を守る者は少ししかいない.ここから想定外の病と死が生ずるのである.これで見るように,わがドゥンガン文化センターと特にイスラーム聖職者にとってこの分野の仕事が山積している.

 このほかに,農村のドゥンガン人と大部分の都市のドゥンガン人にとって現代において一般に通用する形式によって休息すること(療養所,休息の家,サナトリウムを訪れること),すなわちせめて1-2年あるいは3-4年にさえ1度は家から遠く離れて休息し,仕事,家族,親戚関係等々と関連ある日常的な苦労を中断することは彼らに特徴的なことではない.

 農村地域出身のドゥンガン人の絶対多数は農業に従事する.基本的ŋ傾向は米栽培と野菜栽培である.長い間ドゥンガン人は綿花栽培,養蠶,ケナフと小麦の栽培に従事して来た.しかしもっとも成功しているのは現代的技術に基づいた米栽培と野菜栽培にのける彼らの活動である.米はオルタチルチク地区だけでなく隣接するユコルチルチク地区とクルチルチク地区でも植えているが,ここでは1ヘクタール当たり70-8-ツェントネルの米の安定した高収穫が得られる.

 ドゥンガン人は野菜と米のすばらしい栽培者として有名だが,彼らに特徴的なのは入念に耕作し,植物をよく世話し,畝に播種し,密に播種し,水田で水を調整することにより除草することが出来,何度も除草し,灌漑系統を素晴らしく組織し,散水を適宜に利用し得ることである.