В токийском университете иностранных языков прошло «Международное научное совещание по проблемам центральноазиатских дунган», в котором приняли участие и ученые из стран Центральной Азии, в том числе Узбекистана

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Amadi šu āмā de shŏu
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42中学校の教育の枠内で1997年に中国大使館の援助で母語による教育が開かれた.文化=啓蒙はさまざまの見学な年齢のドゥンガン人のために毎年行うものであるが,タシュケントとサマルカンドの博物館,公園,他の施設へのさまざまなエクスカーション,コンサートへの集団的な訪問,建築記念物の見学である.これはドゥンガン民族文化博物館を近いうちに作ることでもあるが,このためにはすでに衣服,靴,装身具,労働用具,生活用品といった何百というさまざまな展示物が集められている.これらは共和国国際文化センターでの展覧会,展示パヴィリオン,毎年のウズベキスタン独立記念祭,国土防衛の日,中華人民共和国国慶節に何度も展示されたものである.ところで1999年にはわがセンターによって6人からなる「チンメ」 «Chinme»(「芽」«Rostok»)アンサンブルが組織されたが,そのレパートリーは主としてドゥンガン人の歌と踊りである.このアンサンブルはドゥンガン人センターだけでなく他の諸センターの行う民族的及び国家的祭典に恒常的に参加している.タシュケント軍事中学Tashkentskij voennyj licejでのナヴロズNavro'z / Наврузに捧げられたコンサートのプログラムへの参加は伝統的なものになった.毎年10月の第1日曜日にドゥンガン文化センターは穀物の祭典の日に穀物製品の展覧会で第1位を得ている.

 ウズベキスタンのすべての祝日はドゥンガン人にとって親しいm、おのである.それらには国家の生活への関与の感情,共和国に居住し,ウズベキスタンの単一民族を構成する単一の民族家族の感覚が明瞭に現われている.

 ドゥンガン人センターの健康増進のプログラムも効果的に作用している.ドゥンガン人の健康のためのチムガンChimganへの旅行が定期的に組織されている.

 「ドゥンガン・マハッラ」での競技場の建設が計画されている.センターの活動で中心的な位置を占めるのは勤労奉仕である.過去3年間わがセンターによって「ドゥンガン人」農場fermerskoe xozjajstvoを通していろいろな民族の貧窮家庭に物質的援助が寄せられ,第42学校,幼稚園に金銭が分与され,活動家が病人を見舞い,結婚式を含めて貧しい家庭に分相応な物質的援助をすることが伝統になった.2002年7-8月には中国陝西省での洪水の被害者に中華人民共和国大使館を通じて援助された.2003年5月には新型肺炎atipicheskaja pnevmanija(SARS)との闘争において中国を援助するための医薬品が集められた.

  中国大使館の側からもドゥンガン人センターを通じて例えば「ドゥンガン・マハッラ」村に住むドゥンガン人を援助している.例えば,1998年にはドゥンガン人にキノコ栽培のための大量の特殊なフィルムplenkaとそれに対応する薬剤が贈与された.キノコ栽培の専門家も来た.このほかに,すでに2年も地域の学校で大使館の援助で中国語教育が行われており,そのため教室が特別に整備された.音楽アンサンブル「チンメ」を作るのに大使館によって組織的な援助もなされ,テレビ,「カラオケ」のヴィデオテープレコーダー,楽器,民族服4着が贈与され,陝西省から来た中国のアンサンブルのコンサートを組織するのに援助がなされた.1997年以降センターは旧暦の正月を祝い,毎年中華人民共和国の国慶節に注目している.

 一言で言えば,ドゥンガン人は今日ウズベキスタンで興味ある内容豊かな生活を営んでいる之である。そしてこのことは最近国家の有名な人々の中でドゥンガン人が多くなっているという事実からでも判断出来るのである.それはヌヴァゾフ・ドヴマル・ラアフノヴィチNuvazov Dvumar Laaxunovich(元チルチク靴製造公社Chirchikskoe obuvnoe proizvodstvennoe ob''edinenie総支配人),ハサーノフ・シャミル・アフメドヴィチXasanov Shamil' Axmedovich(法人「ウズベク工業市民機構」«Uzpromgrazhdanstroj» の第1副所長),カリモフ・ジャマルKarimov Dzhama(フェルガナ師範大学Ferganskij pedagogicheskij institut教授,長年分析数学講座長),マチン・ガリム・ヴェンガロヴィチMachin GarimVengarovich(ウズベキスタン国立大学Nacional'nyj universitet Uzbekistana歴史学部准教授),マシュンピン・ラマザンMashunpin Ramazan,ヤンシロヴァ・ソフィヤJanshchirova Sof'ja(医学博士候補)等々である.

2008年5月13-15日タシュケント市でドゥンガン文化センターによってドゥンガン人中央アジア移住130周年記念国際大会が開かれた.これには中国,カザクスタン,クルグズスタン,日本からの来客が参加した.歓迎の挨拶を述べたのは駐ウズベキスタン中華人民共和国特命全権大使ユイ・フンチュンJuj Xunczjun' / Yu Hunjunである.

 大会参加者はほぼ500人以上いた.ウズベキスタンのドゥンガン人の歴史においてそれほど人が集まったのは初めてである.このことはドゥンガン人が自己の歴史,文化に関心を抱いていることを語っている.大会では中央アジア・ドゥンガン人の歴史と民俗についてのさまざまなテーマについて報告がなされ,

ウズベキスタンにおけるドゥンガン文化センターの13年間の事業報告が行われた.

 生活と活動はテレビ,ラジオ,印刷物に広く紹介されている.過去1年だけでもドゥンガン人とドゥンガン文化センターについて20以上もの刊行物が出た し,15分のドキュメンタリー・フィルムが作られ,習慣,儀礼のほかにドゥンガン人の伝統的職業の現実のモメント―ニラの栽培が示されている.

このフィルムを見た後地域の市場で栄養のあるニラに対する重要が著しく高まった.ところで一層関心の高まったのはいろいろな民族の農民がニラを植えることについてである.ウズベキスタンのドゥンガン人の美術工芸と食品についてのドキュメンタリー・フィルムも撮られた.

 ドゥンガン文化センターは継続して仕事をしている.そしてその不滅の光は国家の指導部の現実の民族政策の証拠であり,その民族政策の主たる任務はウズベキスタンのすべてのエトノスと民族グループの多様な言語,民族的伝統と文化を保存し,発展させるための必要な条件を作ることである.

 現在わがセンターの計画で優先的なのは次の諸問題である:
  1. 青年を高等及び中東専門教育に引き入れる事業
  2. 家庭内副業の再生と発展,伝統的刺繍再生のサークルと作業場の組織,伝統的な女性用短靴の製造等々
  3. 輸出に大きな展望のあるドゥンガン種の野菜栽培に合わせた土地耕作への援助
  4. タシュケント市及びタシュケント州での食堂網の拡大
  5. ドゥンガン人を農業以外の職業に引き入れること
  6. ドゥンガン人が歴史的祖国に旅行することを援助すること
  7. ウズベキスタンにおける民族間合意の強化
  8. ウズベキスタンと中華人民共和国間の友好と連携の拡大と強化

ところでもしも共和国国際文化センター―外国大使館―文化センターという鎖について語るならば,これらの鎖は,民族グループが新たな祖国を見出した国家の側と彼らの歴史的祖国の側から彼らの利害を考慮したこのようなメカニズムの世界的実践において最初のものである.すなわちこの鎖は諸国家の相互作用の恒常的な道具であり,それが文化センターを通じてさまざまな国からのディアスポラ,移住民の言語と文化の保存と発展についての条件を作るのを援助するのである.

全体として,少数であり,ウズベキスタンに長く居住しており,民族間の接触が強いにもかかわらず,ドゥンガン人は伝統文化を著しく維持することが出来た.このことで最重要な要因は次のとおりである.第1に,分散居住を含めてドゥンガン人の相互に友好的な態度,文化の多くの要素の保存における忠誠,願望,不屈さ(この中には中国における同族[回族]においても現在消えつつあるものがある).

 第2に,ウズベキスタンではすべての住民に自己の文化の保存と発展のためのすべての必要な条件が作られており,このことはI・A・カリーモフを先頭とするウズベキスタン共和国指導部の民族政策の重要な構成要素である.

 現在の段階で,ウズベキスタン独立の当初から,同族[回族]及び大使館を含む中華人民共和国から来た公式の代表者との自己の民族文化センターを通じての交流の簡単化によって,ドゥンガン人においては自己の歴史,文化及び言語に対する関心が増大した.このことはドゥンガン人の今後の展望に大きな意義を持ち,独特の文化を持つエトノスとしてのドゥンガン人が多民族ウズベキスタンで独立した単位として長く長く発展するであろうという希望を与えるものである.


阿妈的手 АМАДИ ШУ

(漢字)             (ドゥンガン語現行正書法)


01抬头观天, Тэ ту – гуан тян,

02低头看路。 Ди ту – кан лў

03一扰1儿一天: Йиж1ор – йитян:

04时节歹毒。 Сыҗе дэдў.

05 星宿在位, Щинщо зэ ви,

06 月亮洒光。 Йүәлён сагуон,

07 天河流水 Тянхэ лю фи

08 不慌不忙。 Бу хуон, бу мон.

09 地面改变 Димяр гэбян

10 一年四季 Йи нян – сыҗи:

11 一季一变 Йи җи – йи бян

12 造化传遗。 Зохуа чуан йи.

13 一棵榆树 Йи куә йүфу

14 又奘又高 (Ю жуон, ю го)

15 长在当路, Жон зэ дон лў,

16 不想归老。 Бу щён гуай ло.

17叶子黑绿儿, Езы хилюр,

18枝子也旺。 Жызы е вон.

19根在浮皮 Гын зэ фупир

20往里不长。 Вон ли бу жон.

21 外面儿根奘 Вэмяр гынжуон,

22 叶稠也多, Ечу, е дуә,

23 盘的像网 Панди щён вон,

24 吸水干活…… Щи фи, ган хуә...

25 这个树根 Жыгә фугын

26 就像人手: Зущён жын шу:

27 伸2的心疼 Чын2ди щинтын

28 五个指头。 Вугәжыту.

29 血管也多 Щегуан е дуә

30 裂子不少 Лезы бу шю:

31 我将数脱 Вәҗён футуә,

32 心呢急躁…… Щинни җизо..

^ AMADI ŠU ĀМĀ DE SHŎU


(ドゥンガン語現行正書法     (拼音)

  ローマ字転写)

01 Te tu – guan tjan, Tái tóu – guān tiān,

02 Di tu – kan lŭ Dī tóu – kàn lù

03 Již1or – jitjan: Yì r1ăor - yì tiān:

04 Syźje dedŭ. Shíjié dăidú.

05 Śinšo ze vi, Xīngxiù zài wèi,

06 Jüәljon saguon, Yuèliang săguāng,

07 Njanхe lju fi Tiánhé liú shŭi

08 Bu хuon, bu mon. Bù huāng, bù máng.

09 Dimjar gebjan Dìmiàn găibiàn

10 Ji njan – syźi: Yì nián - sìjì:

11 Ji źi – ji bjan Yì jì – yì biàn

12 Zoxua čuan ji. Zàohuà chuán yí.

13 Ji kuә jü fu Yì kē yú shù

14 (Ju žuon, ju go) (Yòu zhuăng, yòu gāo)

15 Žon ze don lŭ, Zhăng zài dāng lù,

16 Bu śjon guaj lo. Bù xiăng guī lăo.

17 Jezy хiljur, Yèzi hēilǜr,

18 Žyzy jе von. Zhīzi yě wàng.

19 Gyn ze fupir Gēn zài fúpí

20 Von li bu žon. Wăng lĭ bù zhăng.

21 Vemjar gynžuon, Wàimiànr gēnzhuăng,

22 Ječu, jе duә, Yèchóu, yě duō,

23 Pandi śjon von, Pán de xiàng wăng,

24 Śi fi, gan хuә... Xī shŭi, gān huó...

25 Žygә fugyn Zhège shùgēn

26 Zuśjon žyn šu: Jiùxiàng rén shŏu:

27 Čyn2di śintyn Shēn2 de xīn téng

28 Vugәžytu. Wŭge zhĭtou.

29 Śjeguan jе duә Xuèguăn yě duō

30 Ljezy bu šju: Lièzi bù shăo:

31 Vәźjon futuә, Wŏ jiāng shŭtuō,

32 Śinni źizo... Xīn ni jízào...

(漢字)             (ドゥンガン語現行正書法)


33阿妈的巧手 Амади чё шу

34太像树根 Тэ щён фугын:

35血丝儿没有, Щесыр мәю,

36粗皮一层。 Цў пи йи цын.

37 筋筋在外, Җинҗир зэ вэ,

38 裂子也有。 Лезы е ю.

39 热头咋晒, Жәту зэ сэ,

40 有劲儿巧手。 Юҗир чё шу.

41 赶早一早儿 Ганзо йизор

42 把活做脱 Ба хуә зўтуә

43 手上水泡儿 Шушон фипор --

44 疼的不说。 Тынди бу фә.

45 那会儿我小, Нэхур вә щё,

46 可是记得: Кәсы җидый:

47 洗衣,薅草…… Щи йи, хо цо...

48 啥都顾得。 Саду гўдый.

49阿妈的巧手 Амади чё шу

50我今儿想起, Вә җер щёнче,

51心呢难受 Щинни наншу

52称3情道谢。 Чын3 чин, до ще.

53 路上的树根, Лўшюнди фугын,

54 阿妈的巧手! Амади чё шу!

55 你们一同 Ниму йитун

56 打心呢笸4走。 Да щинни бә4 зу.


From:《中亚回族诗歌小说选译》pp.11—13

キリル字

а

б

в

г

д

е

ё

ж

җ

転写

a

b

v

g

d

je

jo

ž

ź

拼音

a

b

w

g

d

ye

yao

zh, r

j




з

и

й

к

л

м

н

о

п

р

z

i

j

k

l

m

n

o

p

r

z

i

y

k

l

m

n

ao

p

r

(ドゥンガン語現行正書法      (拼音)

  ローマ字転写)

33 Аmаdi čjе šu Āmā de qiăo shŏu

34 Тe śjon fugyn: Tài xiàng shùgēn:

35 Śjisyr mәju, Xuèsīr méiyŏu,

36 Cŭ pi ji cyn. Cū pí yì céng.

37 Źinźir ze ve, Jīnjin zài wài,

38 Ljezy jе ju. Lièzi yě yŏu.

39 Žәtu ze se, Rètou ză shài,

40 Juźir čjo šu. Yŏujìr qiăo shŏu.

41 Ganzo jizor Gănzăo yìzăor

42 Bа хuә zŭtuә Bă huó zuòtuō

43 Šušon fipor -- Shŏushang shŭipàor --

44 Тyndi bu fә. Téng de bù shuō.

45 Neхur vә śjo, Nàhuìr wŏ xiăo,

46 Kәsy źidyj: Kěshì jìde:

47 Śi ji, хо cо... Xĭ yī, hāо căo...

48 Sadu gŭdyj. Shádou gùde.

49 Аmаdi čjo šu Āmā de qiăo shŏu

50 Vә źjer śjončje, Wŏ jīnr xiăngqi,

51 Śinni nanšu Xīn ni nánshòu

52 Čyn3 čin, dоśjе. Chēng3qíng, dào xiè.

53 Lŭšjundi fugyn, Lùshang de shùgēn,

54 Аmаdi čjo šu! Āmā de qiăo shŏu!

55 Nimu jitun Nĭmen yìtóng

56 Dа śinni bә4 zu. Dă xīn ni pŏ4 zŏu.


[劉勲寧注]1 绕rào 2 生 shēng 3 陈 chén 4 嫑 bào


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1 Поярков В.Ф. Последний эпизод дунганского восстания. – Верный, 1901, с.12.

2 Семенов П. Географическо-статистический словарь российской империи.-СПб.-Т.5.- 1885.-С.273-274.

3 Поярков В.Ф. Последний эпизод дунганского восстания. – Верный, 1901, с.86.

4 ЦГИА Казахстана. Ф.64. Оп.1. Д.175. Л.7.

5 Васильев В.А. Китайцы, новые подданные России.- Восточное обозрение. - 1885. - № 2.

6 Шрейдер П.И. По окраине. Путевые очерки. – СПб., 1893, с.73.

7 Маджун Д.С. Среднеазиатские дунгане в период культа личности. – Диалог ученых на великом Шелковом пути. – Бишкек, 2002, с.61-69.